- ~1870(明治3)年 プロテスタントの日本伝道
- ~1871(明治4)年 ~1878(明治11)年 パーム・押川・吉田の出会い
- ~1879(明治12)年 ~1885(明治18)年 開校への胎動
- ~1886(明治19)年 ~1893(明治26)年 創立とプゥルボー校長
- ~1894(明治27)年 ~1905(明治38)年 発展と試練
- ~1906(明治39)年 ~1913(大正2)年 躍進の10年
- ~1942(昭和17)年 ~1959(昭和34)年 戦禍と復興、西山学院長時代
- ~1942(昭和17)年 ~1959(昭和34)年 戦禍と復興、西山学院長時代
- ~1960(昭和35)年 ~1978(昭和53)年 拡充と「改革」
- ~1979(昭和54)年 ~1986(昭和61)年 移転から「百周年」まで
- ~1987(昭和62)年 ~2011(平成23)年 開花
- ~2011(平成23)年 ~2016(平成28)年 130周年
1906(明治39)年 3月16日 |
「萬国基督教女子青年会」本部マクドナルド女史来仙を機に「宮城女学校基督教女子青年会」創立 |
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10月 | 原田ことぢ、英語教員として就任 |
1907(明治40)年 6月11日 |
「宮城女学校運営委員会」(外国伝道局の方針遵守下での宮城女学校管理運営機関)設置 |
9月 | 「合衆国改革派教会」宣教師 ケート・I・ハンセン、リディア・A・リンゼイの両名、音楽教員及び英語教員として就任 |
10月 | 早坂哲郎幹事、「合衆国改革派教会」外国伝道局の招聘により研究・視察のため2ケ年の予定で渡米 |
1908(明治41)年 1月 |
従来の校地の西南側隣接地東二番丁139番地~140番地に6百余坪取得 |
4月6日 | ズーフル、帰国のため仙台発 「合衆国改革派教会」宣教師 H.K.ミラー、「設立者」(従前の「校主」)に就任 |
4月7日 | H.K.ミラー、第4代校長に就任 |
9月より | 授業料1カ月「予科」50銭・「本科」1円をそれぞれ60銭・1円20銭に改訂 |
1909(明治42)年 3月 |
「宮城女学校文学会」機関雑誌『宮城野』を廃刊して『萩の下露』創刊 |
8月22日 | S.L.ワイドナー再来日、9月13日第5代校長に就任(但し、2月22日付で認可済) |
9月18日 | S.L.ワイドナー、「設立者」に就任 |
12月18日 | 早坂哲郎幹事、研究・視察を終え帰仙 |
1910(明治43)年 2月24日 |
教職員・生徒一同参集し、「校旗制定」を決議 |
3月 | 宮城女学校「本科」第10回卒業生奥山ます、「宮城女学校同窓会」第2代会長に就任 |
4月2日 | 第18回卒業式の日、教職員・在校生一同より「校旗」の寄贈,卒業生一同より「宮城女学校基本金」のため金200円の寄贈。 なお卒業式には当時来仙中の「合衆国改革派教会」外国伝道局総幹事バーソロミュー博士夫妻臨席 |
8月12日 | 「学則改正」により「予科」を廃し、「本科」を「高等女学科」(5年制)と改称 |
12月21日 | 文部大臣より、「明治44年3月以後の卒業者は『高等女学校令』による高等女校卒業者と同等以上の学力を有すると検定する」旨の通達を受く |
1911(明治44)年 3月29日 |
第19回卒業式(「本科」卒業生25名)並びに「聖書科」第1回卒業式(卒業生8名) |
4月10日 | 第26年度授業開始、本年度より「高等女学校令」による女学校として発足 |
4月13日 | 文部大臣より、「明治43年以前の卒業者全員も明治44年3月以後の卒業者と同等の学力ある者と認める」旨の通達あり |
10月 | 東二番丁134番地に校地670坪(「寄宿舎」北側隣接の土地)を取得 |
10月25日 | 宮城女学校創立満25年記念祝賀式。『私立宮城女学校一覧』(東北学院労働会金子紀念印刷所印刷)発刊 |
1912(明治45・大正元)年4月 | 3年制「家政専攻科」を設置 東二番丁132番地~133番地(1911年に取得した校地の北側に隣接の東二番丁・柳町角地)に校地を取得。 四面を東二番丁・北目町通・東三番丁・柳町通に囲まれた方形の所謂「東二番丁校地」が整う |
1913(大正2)年 4月 |
3年制「英文専攻科」設置(但し、開講が2年遅れて1915年4月開講となる) |
7月16日 | 「合衆国改革派教会」宣教師で東北学院教授であった A.K.ファウスト、第6代校長に就任 |
10月10日 | 早坂哲郎幹事在職25周年記念祝賀会 |
11月25日 | 幼稚園保姆無試験検定認可 |