- ~1870(明治3)年 プロテスタントの日本伝道
- ~1871(明治4)年 ~1878(明治11)年 パーム・押川・吉田の出会い
- ~1879(明治12)年 ~1885(明治18)年 開校への胎動
- ~1886(明治19)年 ~1893(明治26)年 創立とプゥルボー校長
- ~1894(明治27)年 ~1905(明治38)年 発展と試練
- ~1906(明治39)年 ~1913(大正2)年 躍進の10年
- ~1942(昭和17)年 ~1959(昭和34)年 戦禍と復興、西山学院長時代
- ~1942(昭和17)年 ~1959(昭和34)年 戦禍と復興、西山学院長時代
- ~1960(昭和35)年 ~1978(昭和53)年 拡充と「改革」
- ~1979(昭和54)年 ~1986(昭和61)年 移転から「百周年」まで
- ~1987(昭和62)年 ~2011(平成23)年 開花
- ~2011(平成23)年 ~2016(平成28)年 130周年
1871(明治4)年 | 押川、横浜の「修文館」に移る J・H・バラ、横浜居留地167番の小会堂で押川方義、本多庸一、植村正久ら達青年を教える、所謂「バラ塾」 |
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1872年3月9日(明治5)年1月1日 | 日本人による最初の祈祷会 がバラの指導のもとに始まる。祈祷会は連日続けられたが、1872年3月10日(明治5年2月2日)、日曜日の午後、押川方義ら「バラ塾」青年中9名、バ ラから受洗。 この日、既に他所で受洗していた2名を加えた11名により我国最初のプロテスタント教会である「横浜公会」(「日本基督公会」)創立。 バラ、 仮牧師となる |
1873(明治6)年 | 吉田亀太郎、上京して築地新港町の化学研究所で石油精製方法研究に従事す 「合衆国改革派教会」外国伝道局、日本伝道方針決定 S・R・ブラウン、横浜山手211番に「ブラウン塾」開設。押川方義、植村正久、井深梶之助、藤生金六、山本秀煌、雨森信成など「ブラウン塾」生となる |
4月15日 | 「エディンバラ医療伝道会」、日本伝道を決定し、日本派遣最初の宣教医師としてT ・A・パームを選任 |
1874(明治7)年 5月15日 |
T・A・パーム夫妻来日 |
1875(明治8)年 1月19日 |
パーム夫人メアリー、出産後三日目のこの日、に逝去。初産の女児も1月28日に逝去。 |
4月9日 | 新潟伝道を決意したパームは東京を発ち、4月15日に新潟到着、医療伝道開始パーム、横浜のブラウンに協力者派遣を要請。 ブラウンからこの要請を知らされたバラは祈祷会の席上で「ブラウン塾」生達に新潟伝道応援のための献身者を募る。 誰一人応ずる者無き中で「横浜公会」長老の押川方義これに応ず吉田亀太郎、石油精製事業のため新潟へ向かい、12月中旬、中條町到着 |
12月21日 | 「横浜公会」(現・「日本基督教会横浜海岸教会」)長老押川方義、横浜を出発、新潟のパームのもとへ向う |
1876(明治9)年 1月3日 |
押川、新潟のパームのもとに到着 「合衆国改革派教会」(「ジャーマン・リフォームド」)、「米国改革派教会」(「ダッチ・リフォームド」)と提携して外国伝道を行うことを決定 |
1877(明治10)年 10月3日 |
「日本基督公会」、「日本長老公会」合同により「日本基督一致教会」組織 吉田亀太郎、パーム並びに押川による伝道説教で福音に接す |
1878(明治11)年 9月30日 |
「合衆国改革派教会」、日本宣教事業に着手のためA・D・グリングを日本派遣 最初の宣教師として選任 |
11月5日 | 吉田、新潟でパームから受洗 |