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12月のロンドン日記

 クリスマスシーズンがやってきました。宮城学院の礼拝堂も美しく点灯されていることでしょう。一年で一番日の短くなるこの時期、北欧ほどではないにしても緯度の高いイギリスでは、午後4時頃にはすっかり暗くなるので、街中をイルミネーションで華やかに飾り立てたくなるのもわかる気がします。暖冬だった去年に比べて寒いと言われる今年の冬は、毎朝のように霧が深く立ちこめ、昼過ぎにようやく霧の向こうから日差しがやんわりと差し込んでくると、いつもの見慣れた景色が幻想的な光と靄に包まれます。この気候が、ターナーのような光と影を操る画家を生んだのでしょう。


 
先日、往年の名バイオリニストEmanuel Hurwitz氏ご夫妻のお宅で開かれたサロンコンサートにご招待頂きました。Hurwitz氏は、イギリス室内管弦楽団やメロス・アンサンブル、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団、アイオリアン弦楽四重奏団などのリーダー(日本で言うところのコンサートマスター)を歴任され、当時最高の室内楽演奏家と評された方です。共通の知人の招きで一緒にお食事する機会があり、お住まいがご近所だということがわかったのでした。

 
 ご夫妻のサロンコンサートには明確な目的があります。40年以上も前、息子さんがまだ幼かった頃、近所の子供たち10人を集めてアンサンブルを始めたのが、Youth Music Centre (YMC)という、今や合唱隊やオーケストラを含め220人規模を誇る大組織の始まりでした。この組織の大きな特徴は、自治体などに頼らず自分たちでお金を集め、音楽を習いたいのにレッスン代が払えない子供達にレッスンを受けさせたり、楽器の買えない子供達に楽器を貸し出したり、という活動を行なっていることです。ご夫妻の自宅で開かれるサロンコンサートは、入場料収入をその活動資金にあてるために始められたものです。Hurwitz夫人は長年YMCを率いて来られましたが、数年前、80歳を機に退かれ、今はもっぱらこのサロンコンサートの主宰に専念しておられます。かつて世界的に活躍しておられたご主人のHurwitz氏も、今は杖に頼って歩く不自由なお体ですが、お二人で、ご自宅でできる音楽支援を続けておられる、その自然な減速切り替えは、本当にお見事です。


 
 さて、その日のサロンコンサートの出演者は、YMC出身の19歳のチェリストの女の子で、今王立音楽院の2年生に在籍中です。彼女の当日の出演料はチョコレートが一箱でしたが、30人ほどの聴衆をたっぷり1時間半楽しませてくれました。バッハの無伴奏チェロ組曲の各曲の合間に「素晴らしいじゃないの!」と演奏者に向かって感想を言う地元のおばさまに微笑しつつ、プログラムの順番が入れ替わっていて「次はなんだい?」と毎回尋ねるおじさまに演奏曲目を答えつつ、彼女にとって初めての「ソロ・リサイタル」は、終始和やかに進行しました。サロンコンサートはこういう聴衆とのコミュニケーションがあるから面白いし、このような地元の支援を受けて、彼女は次第に舞台度胸やマナーや、集中したり緩めたりする精神コントロールや、ハプニングのあしらいかたも覚えていくのでしょう。
 
 
 私達(テノール歌手の夫と私の歌曲デュオ)も、かつて、日本でもヨーロッパでも、このようなカジュアルなコンサートにたくさん出演させて頂いたことを思い出します。特に、20代前半から30歳くらいにかけての駆け出しの時代に、プロフィールや業績リストには現れない無数の小さな本番の積み重ねから、本当に多くのことを学んだのだと、彼女の演奏を聴きながら改めて実感しました。大仰なコンサート契約が結ばれるわけでもなく、コピーで作ったようなプログラムが一枚あるだけ、イギリスやヨーロッパでは名前のつづりが間違っていることもしばしばで、ハプニングも修羅場も日常茶飯事でした。聴衆の息遣い、見知らぬ日本人の演奏に聴き入っているか飽き飽きしているかが目の前から伝わってくるような、そういう場で鍛えられてきたことは、今となっては財産です。
 

 その中のひとつ、デンマーク領フェロー諸島というところで経験したコンサートのことを書きたいと思います。フェロー音楽祭というれっきとした音楽祭の一環だったのですが、デンマーク本国からやってきた音楽家達が、一番大きな島を拠点に、周辺の小さな島々を一日ずつ移動してまわるのです。コペンハーゲンからプロペラ機のような飛行機で2時間あまり、現地での毎日の移動手段は船でした。私達は演奏するために行ったのではなく、私の作品がプログラムに入っていたので、誘われて、旅行気分で一団についてまわっていたのでした。ある小さな島で突然、一人の演奏者が一日一往復しかないフェリーに乗り損ねたか何かで、プログラムの半分に穴があいてしまいました。とにかくどうにかして40分あまりの穴を埋めて、集まったお客を一晩楽しませなければならない、という事態に至って、のんびりだらけきってリラックスしていた私達に白羽の矢(?)が立ちました。前の晩さんざん酔っ払ったことを悔やみつつ、お客は現地語とデンマーク語しか理解しないので、ドイツ語ならば多少わかってもらえるのではないか、いっそ典型的日本モノの方がよいか・・・と、自分たちのレパートリー・リストを頭の中で必死に手繰りました。ぶっつけ本番で、楽譜もないので暗譜で演奏でき、かつ、お客が知っていそうな、あるいは知らなくても飽きない40分を構成できそうな曲をかき集め、よくぞしのいだと今でも思いますが、とどめは、演奏会場となった教会にピアノがなかったということです。シューベルトの「鱒」の前奏を、小さなチャーチ・オルガンで弾いているところを想像してみてください!後にも先にも、私が一般公開のコンサートでオルガンを弾いたのは、あの時だけです。その後「鱒」は、私にとって「絶対怖くない」レパートリーのひとつになりました。何しろピアノで弾けるというだけで、ものすごく幸運だと感じることができるのですから。私達の40分は、日英独伊4ヶ国語のレパートリーを組み合わせて、夢中のうちに過ぎました。無伴奏で歌い始めた「荒城の月」は薄暮の北の海に朗々と吸い込まれ、二番から加えたオルガンの鄙びた音が、さらに効果的に物寂しい雰囲気を醸し出したのは、神秘的とも言える体験でした。スコットランドの遥か北方に浮かぶ、小さな島の小さな教会で、日本人の演奏する歌に耳を傾けるバイキングの末裔たち・・・私達は本当に、全身全霊をもって、彼らを楽しませなければならなかったのです。

 
 Hurwitz家のサロンコンサートは、久しぶりに、自分が辿ってきた道のりのいくつかを思い出させてくれました。そして改めて、音楽科の演奏試験で緊張したり喜んだり落ち込んだりする演奏家の卵さん達や、毎年大学祭で素晴らしい舞台を創り上げる文化系のクリエイターさん達や、頑張っている人達みんなに、今皆さんが経験している小さな成功も小さな失敗も、すべてあなた達の中に、人生の貴重な財産として蓄積されるよ、ということを、心からの応援を込めてお伝えしたいと思いました。

 
 今年のクリスマスは、これまでの自分を支えて下さった方々に感謝し、これからもさらに、荒海に漕ぎ出す勇気を持ち続けられることを願って、静かに迎えたいと思います。
 皆様もお元気で、どうぞよいクリスマスを、そしてよい年をお迎えください!!

2005年12月
なかにしあかね