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宮城学院は1910(明治43)年に制定された校旗の中心部に位置する紋章をもって校章と定めています。それは、「開かれた聖書とその上に舞う鳩とを宮城野萩の輪が囲むもの」です。

開かれた聖書と聖霊を象徴する鳩とは、宮城学院の教育が福音主義キリスト教に基づくことを明示し、所在地とのかかわりを示す宮城野萩は清純にして強靭な人格の育成を意味するもので、改革派教会のシンボルカラー臙脂(えんじ)色で彩られ、その信仰によって建てられた宮城学院の建学の精神をよく表しています。
なお、校旗作成当時を知る同窓生の回想記録などによれば、聖書の提案はサディー・ワイドナー校長、鳩は原田ことぢ先生、宮城野萩は生物科の京道信次郎先生とそれを採用された早坂哲郎幹事で、全体をデザインしたのは、当時、図画教師であり、のちに歌人として有名になった原阿佐緒さんです。


作詞:土井晩翠


作曲:ケート・I・ハンセン

1.

天にみさかえ 地に平和
ひとにみめぐみ あけくれに
祈る尊き み教えの
光をあおぐ 姉妹

2.

ああ曙よ 光明よ
春よ 望と愛と信
嵐も雨も むらくもも
我には示す 明日の晴

3.

わが名にしおう 宮城野の
錦の郷に 日々に織る
あやを 心によそいつつ
聖なるわざに いそしむ身

4.

鳩のやさしみ 清浄の
操みどりの 橄欖の
色はとこしえ 人の世に
神のほまれを あらわさん

校歌演奏をこちらからお聴きいただけます。

宮城学院校歌は、本学音楽科創設者のケート・I・ハンセン先生が作曲され、土井晩翠先生が作詞されたものです。
ハンセン先生は1907(明治40)年9月~1951(昭和26)年1月まで、途中不幸な第二次世界大戦中に帰国を余儀なくされましたが、宮城女学校、宮城学院で40年の長きにわたり教鞭をとられました。国内に東京音楽学校(現東京芸術大学)と神戸女学校(現神戸女学院大学)しか音楽専門学校がなかった1916(大正5)年に、音楽教師養成を目的にした3年間の音楽専攻科を開設し、多くの卒業生を全国のキリスト教学校の音楽教師として送り出しました。当時、ヨナ抜き音階(5音音階)しか知らなかった日本人に7音音階を教え、ソルフェージュの授業も、どこの音楽学校よりも早く大正時代から取り入れ、日本の音楽教育の進歩発展と西洋音楽の普及に多大な貢献を果たされたのです。讃美歌1954年版289番は、ハンセン先生が作曲されたものです。
土井晩翠先生は、滝廉太郎の「荒城の月」の作詞者としてつとに知られた詩人・英文学者です。先生とご一家は、とりわけ宮城女学校との深いかかわりを持ち続けられました。土井林吉として母校二高の教授を務めるかたわら1915(大正4)年4月~1924(大正13)年12月までの9年間にわたり宮城女学校専攻科で英文学講師を務めておられます。またお二人のお嬢様、照子さん、信子さんは本学で学ばれ、文芸部員として活躍されました。更に、熱心なキリスト者であった奥様の八枝様も、本学理事として長いことその重責を担ってくださいました。文字通り、一家をあげて宮城女学校に深く関わられ、本学を愛されたのです。事実、1921(大正10)年6月30日に創刊された文学会雑誌『橄欖』には、創刊号から第八号まで土井先生ご自身が、毎回巻頭に創作詩を寄稿してくださいました。
校歌の歌詞は短いものですが、実に豊かな聖書的イメージを宿しており、土井先生ご自身が、聖書の御言葉に深く沈潜しつつ、一言一言を紡ぎだした渾身の一作と言えます。ところで、歌詞のどこにも校名が出てきていません。その理由は、そもそもこの歌が校歌として作詞されたものではなく、キリスト教女子青年会(YWCA)の歌として作詞されたものだったからです。その歌を、宮城女学校が創立50周年を迎えた1936(昭和11)年に、あらためて校歌として正式に制定したのです。

宮城学院は、創立130周年を迎えます。
1886(明治19)年9月18日の創立以来、女子教育を続け これまでの同窓生は延べ85,000名を超えています。
(それぞれのリンクは宮城学院女子大学のページにジャンプします。)

資料年報21号(PDF)

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