葉78号


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先生おしえて!!
〜九里順子先生インタビュー〜
  去る十一月七日、九里順子先生を日本文学会室にお招きして、お話をうかがうことが出来ました。九里先生の明るい笑顔で始終楽しい雰囲気だったインタビューの様子をお届けいたします。
Q.先生の出身地を教えてください。
A.福井県大野市です。越前の小京都と呼ばれる、水の清らかな城下町です。
Q.生年月日と血液型を教えてください。
A.猫年。二黒土星。AB型です。
Q.性格判断などは信じるほうですか。
A.血液型占いは四つに分けただけですからね。あまり気にしません。よいことだけ信じますね。話の種にはなりますね。
Q.家族構成を教えてください。
A.パートナーが北の国にいます。
Q.学生の頃は何をなさっていましたか。
A.よく語り合い、よく読むという生活をしていました。大学の屋上での蚊に喰われながらの夕涼みが印象に残っています。
Q.大学の頃は一人暮らしをしていたのですか。
A.そうです。若いときの一人暮らしは多少無理をしてでもするべきですよ。自立心が養われます。
Q.どんな本をお読みになっていたのですか。
A.好奇心に任せて、気の赴くままですね。それこそ、文学史に出てくるような内外の名作からサブカルチャー関係の本まで、手当たりしだいに読みました。
Q.名作の良いところはどんなところですか。
A.名作は骨組みがしっかりしているんですよ。典型と言うか、本物ですね。
Q.文学に目覚めたのはいつ頃ですか。
A.目覚めたというよりも、いつも傍にあったという感じです。
Q.三年前はサバティカル(研究休暇)だったそうですが、どんなことをされていたのですか。
A.博士論文(『明治詩史論』)をひたすら書いていました。
Q.著書『明治詩史論 透谷・羽衣・敏を視座として』について教えてください。
A.三人の詩人を結節点として、明治詩の表現領域の深化を論述しました。新たな明治詩史の試みです。
Q.休日は何をなさっていますか。
A.睡眠と家事でほぼ日が暮れてしまいます。体力温存に努めています。
Q.先生が相撲がお好きなことは有名ですが、相撲の魅力はなんですか。
A.体一つで取り組む技の面白さ、円い土俵の奥深さ、土の匂いのなつかしさです。
Q.力士は誰のファンですか。
A.おおらかな相撲を取る大関の白鵬、期待の若手、小結の稀勢,腰の構えの良い豊真将の里です。
Q.最後に宮城学院の学生にメッセージをお願いします。
A.何事もソツなくこなして終わるのではなく、貪る体験をしてください。そこから自分の人生に対する取り組み方が生まれると思います。

 九里先生、お忙しい中、本当にありがとうございました。(松)
ハートフル童話賞 インタビュー
 二〇〇六年度のハートフル童話賞で、最優秀賞を受賞した持地愛さんにインタビューを行いました。
Q.ハートフル童話賞に応募しようと思った理由は何ですか。
A.二年生の時に創作の授業を選択していたので、自分の創作力がどの程度評価されるのか試してみようと思いました。また、募集テーマだった「記念日」は偶然にも、私が所属しているウインド・オーケストラ部のコンサートテーマでもあったので。
Q.話を作っていく段階で、喜びや苦悩はありましたか。
A.嬉しかったのは、テーマと書きたい事とがスパッと結びついた瞬間ですね。 逆に、いかにリズムよく話を構成していくか、これには苦心させられました。
Q.受賞した事によって、何かお気持ちに変化はありましたか。
A.創作に対して、自信がつきました。授業の成果の表れだと思うので、 先生には感謝したいですね。
――ご協力頂きありがとうございました。持地さんの作品『ジジの誕生日』は『ハートフル童話集2006』に収録されています。
  ぜひ一度、読まれてみては。(島)

なぜ今藤沢周平なのか
 この秋仙台文学館にて「藤沢周平の世界展」が開催され、本学科一年生も全員で見学に行ってきました。
同人雑誌の仲間で晩年までご親交があったと伺っている本学名誉教授、蒲生芳郎先生に「なぜ今藤沢周平なのか」というテーマでご寄稿をいただきました。
―静かな雨が降るようにー
          蒲生 芳郎
 いま、藤沢周平ブームが静かにひろがっている。東京世田谷文学館の後を受けて仙台文学館で「藤沢周平の世界展」が開催されたのは、昨秋九月から一一月にかけてだった。この種の展示会としては破格の来館者を集めたという。朝日新聞社から『藤沢周平の世界』というタイトルの、これまでに類例のない週刊誌が創刊されたのは昨年一一月一二日。山田洋次監督の藤沢原作映画三本目の「武士の一分」の封切りは一二月一日。その前には黒石三男監督の「蝉しぐれ」がひとしきり評判になったことも記憶に新しい。極め付きは作者の郷里鶴岡市に「藤沢周平文学記念館」が今年度中に着工されることだろう。ただし、個人名を冠した文学館が珍しいわけではない。しかしそれらの多くは、日本中の自治体が〈文化的な〉箱物づくりに血道をあげたバブル時代の名残である。それに反して今やどこの自治体も赤字に悩んでいる。その緊縮財政の折から、人口一〇万そこそこの鶴岡市が敢えてこの事業に取り組むのは、藤沢文学の〈故郷〉鶴岡市を訪ねる愛読者が年ごとに増えているからにちがいない。
 それにしても、なぜいま藤沢周平なのか?文章最も端正にして平明達意、最も上質の文芸的エンターテインメントだからという言い方がある。藤沢文学には郷愁を誘う日本の原風景があるという評語もある。それらはそれらとしてそのとおりにちがいないとしても、〈なぜ今藤沢周平なのか〉という問いに対する答えとしてはややもどかしさが残る。
 あえて言えば、藤沢周平の文学は乾いた大地を潤す静かな雨に似ている、という言い方はどうだろう?乾いた大地というのは、異常気象にもたぐえたいほどに〈異常〉な近ごろの世相と、異常に驚かなくなった人々の心のことだ。一方に巨額の金の飛び交う華やかな世界が報じられ、他方にニートやワーキング・プアが巷にあふれる。さらには親殺し・子殺しからいじめによる少年少女の自殺者の続出、果ては絶えることのない飲酒轢き逃げ事件まで、近ごろの人々は〈異常〉に馴れることを強いられているのかもしれない。
 藤沢周平の文学世界は、時代小説の特性上、一般に小説的事件・劇的事件を核に構成されるものの、その基盤は、武士にせよ町人職人にせよ、〈異常〉とは反対の〈普通の暮らし〉を営む者たちを描くところに成り立つ。いまそのことを作品に即して述べる紙幅はないが、作者自身、〈普通の暮らし〉に徹した生活者だった。一人娘の展子さんに「父は生涯〈普通が一番〉と言い続けた」という証言があるが(『藤沢周平 父の周辺』)、実際、私の知る作家藤沢周平は、最も華やかな流行作家時代にも頑固なほどに〈普通の暮らし〉を守り続けた人だった。彼が終生住んだのは、まったく目立たない〈普通〉の一般住宅だったし、極め付きは、生前に用意された墓である。おそらく永く歴史に残る作家藤沢周平の墓は、おしなべて高さ七十センチ幅五十センチ以内と規制された数百の墓石が整然と並ぶ都営集団墓地の一郭にある。そしてその墓面には「小菅家之墓」(藤沢周平の本名は小菅留治)と五文字が彫られるのみである。
 普通の暮らしとは、人それぞれに為すべき仕事を為し、くつろぐときにはくつろぎ、時に笑い、時に涙し、喜怒哀楽、浮き沈みはあっても、大筋、〈人の道〉を踏み違えずに生きてゆく暮らし、いわば〈まともな暮らし〉のことだろう。人目に目立つことのない、そういう暮らしこそが一番だというのがこの作家の信条だった。したがって藤沢周平の作品世界にこういう信条が底流するのは創作の必然である。まともな人間の〈普通の暮らし〉―しばしばそれを脅かされながら、それを守るべく、あるいは取り戻すべく、けなげに生き抜く人間たちを描き続けた藤沢周平の文学世界―ともすれば異常が普通と錯覚されかねない世相の中で、今こそそれが懐かしまれるのは故なきことではない。
 藤沢周平の作品がどしゃ降りのようなベストセラーになったことはない。しかし静かな雨が乾いた大地を潤すように、それは永い時間をかけて人々の心にしみ入る。今、藤沢周平の文学がことさらに懐かしまれているとしたら、人々の心は、相次ぐ〈異常〉の中で乾きかけているのかもしれない。


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