私のお薦め図書(米原万里『不実な美女か 貞淑な醜女か』)
宮城学院女子大学日本文学科 澤邉 裕子
 「不実な美女」「貞淑な醜女」―どきまぎしてしまいそうなタイトルですが、これ何の例えだと思いますか。
 ヒントはこの著者の職業―「通訳」です。
  実は、いい訳とはどんな訳かを考えた時、「美しく整っているが、原文に忠実でない訳」を「不実な美女」、
 「原文に忠実だが、整っておらず、ぎこちない訳」を「貞淑な醜女」と比喩したものなのです。
 多くの通訳者は時と場合に応じて不実な美女」になったり「貞淑な醜女」になったりする必要があると、
 数々の通訳現場でのエピソードを交えて、通訳論が展開していきます。
 その一つを紹介しましょう。

「百年カセイを俟つようなものだ」という日本人の発言、ご存じのように、「カセイ」とは「河清」と書く。
 「河」というのは中国の黄河の意味。黄河は黄色く淀んでいるけれども、これが清らかになることは百年待っても果たせない。
 つまり不可能なことを待つようなことだという譬えである。これを「百年火星を待つようなものだ」と訳してしまい、
 偶然にも「含意」を伝えてしまった通訳がいる。しかし、このような偶然は、まさに「百年河清を俟つ」ほどではないにしても、
 「地獄で仏」に出会うほど、あるいは「南極で冷蔵庫を売りつける」ほど難しいことだから、「二匹目のどじょうは狙わない」ほうがよい。
 それよりも、母国語のさまざまな慣用句、成句などにも、暇なときに親しんでおくのは、通訳の嗜みかもしれない。(中略)
 日本語の慣用句の難しさについては、山形弁研究家のダニエル・カールさんも、「足が出た」、「火の車」、「顔が広い」、
 「目が高い」、「油を売る」、「濡れ手で粟」などの例をあげている。
 いずれも字句通りに訳していては通じない表現である。(pp.190-191)

  原発言をそのまま忠実に訳していては解釈不可能な発話がたくさんありますが、慣用句や諺はその最たるものでしょう。
 通訳という職業はまさに日本語と外国語、日本文化と外国文化がぶつかり合う場で格闘する仕事。
 外国語と外国文化を知らずして日本語や外国語は語れない、そう実感させられます。
 異文化コミュニケーションに興味のある方なら米原万里著『魔女の1ダース』(新潮文庫)もお薦めです。

 他にも戸田奈津子著『字幕の中に人生』(白水社)、太田直子著『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』(光文社新書)など、
通訳や翻訳を稼業としている方の書く日本語論はどれも興味深く、新たな視点を与えてくれます。
  いつもと違った角度から日本語や日本文化を見たい方にお薦めします。



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