私のお薦め図書(『卡子(チャーズ)』)
宮城学院女子大学日本文学科

犬飼 公之
 ここしばらくの間、私は『卡子』という本を読んでいた(『文春文庫』上・下)。戦前、中国で長く生活されたご婦人が「是非お読みなさいと貸してくださったのである。
 その書名の下に「中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女とある。舞台は旧満州(中国東北部)。昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本は敗戦を迎えたが、そこにはおびただしい数の日本人がとり残された。そして中国は国府軍と中共軍が、新国家建設の主導権をめぐって激しく戦っていた。

 「国府軍の支配下にあった長春を、中共軍が包囲して兵糧攻めにしたため、市民は忽ち飢餓に瀕した。人々は脱出を計ったが、行く手を中共軍に阻まれ、狭い緩衝地帯に閉じ込められて地獄が現出した」(上カバー)。  その「狭い緩衝地帯が卡子であった。柵門でしきられた軍の検問所である。その中に、当時七歳の少女だった著者一家がいた。一家はそこからかろうじて脱出したが、その後も過酷な状況に次々とみまわれる。

 このドキュメンタリーを読むまで、私は卡子の存在も、そこで起った人肉・人骨をも口にするという凄惨な生き地獄も知らなかった。そのあまりのすさまじさに、何度も読むのをやめたいと思いながら、しかし、読みつづけた。何故か。

 それは戦後の復興と今日の豊かな安寧の陰の原点がそこにあり、そこから目をそらしてはならないように感じたからである。そしてその極限情況のなかで、なお人間の細々とした、しかし、確かな絆と善意がこの少女の生をつなぎとめていることの重みをうけとめていたからである。一読をおすすめする次第である。

 この本を読み終えて数日後、私は知りあいから「実は母は卡子にいました。しかし、辛かったという以外何も話しませんという話を聞いた。身近に卡子の関係者がいたことに驚き、彼の母親の深い心の傷を思った。



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