File No.27  保坂 陽子 さん

  年齢  20代
  在学中の専攻 文化系(応用)専攻  

私は東京の短大で音楽を勉強したあと、編入生として宮城学院に入学しました。在学中に結婚、出産、という人生の大きな転機があり、一時休学しましたが、周囲の人たちに励まされて、卒業することができました。昨春、主人の就職に伴い家族で新潟に引越し、現在は中学校の常勤講師を勤めています。


音楽との出会いは、小学校1年の夏からエレクトーンを習いはじめたことでしょうか。祖父がクラシック音楽をよく聞いていて、「ピアノではなく、いろんな楽器を」との勧めで、隣町のYAMAHA音楽教室に通うことになりました。

中学校の時に吹奏楽部に入部し、その時にサックスを担当し、楽器の面白さに惹かれました。小規模編成の学校だったため、アルト・サックス、テナー・サックス、バス・クラリネット、 とさまざまなリード楽器を持ち替えて担当しました。

高校に入学し、顧問の先生から「トランペットをするんだったら入部を許可する」と言われ、しぶしぶトランペットを始めました。ところが、そこからトランペットにのめりこんでいきました。

自分の将来について、そもそも高校3年の時、目指していたのは、YAMAHA音楽教室のシステム講師でした。だから、音楽大学の受験は考えていませんでした。ところが12月の試験に失敗し、路頭に迷っていたら、顧問の先生が自分の卒業校の願書を取り寄せてくれていて、「やる気があるなら、受験するか?ただし、将来設計が変わるぞ」と言われ、本当に土壇場で受験を決め、2月に4年制(大学)を受検しましたが不合格。(聴音では音部記号・調号・小節線くらいしか書けないレベルでしたし・・・)3月に同大学2年制(短大)を受験し、何とか合格しました。

短大2年になる頃、進路を考えるのですが、音楽を短大で2年勉強してもオーケストラの入団試験に合格できるわけも無く、また、普通高校から進学したので、楽典や和声も殆ど独学で、音楽の知識はとても中途半端な状況でした。また、もともと人に音楽を教える仕事に携わりたいと思っており、短大では中学校教諭2種免許をとっていたので、「やっぱり、ちゃんと1種をとって教員採用に挑もう!」と4年制大学への編入学を考えました。

勿論、在学していた短大内での編入をまずは考えたのですが、「演奏家として食っていけない」現状があったので、もっと広く音楽を学んでみたい!と思い、受験先を探していたら、宮城学院を見つけ「お!文化系??これって面白そうカモ?実家にも(神奈川より)近くなるし」と思い、受験を決めました。


宮城学院へ入学した当初は戸惑いも多く勉強に打ち込めない時期もありました。実際、私がいた短大は、渋谷にも地下鉄で30分、広大な敷地に音楽だけをする人間がウジャウジャいて、専攻実技試験での結果がオケやブラスの席に反映されるような社会で、いろんな楽器の生徒がいて、練習も朝6時から夜11時まで、みっちり練習棟で生活していました。(その後にバイトも!)それが、環境が突然がらりと変わり、友達も作るのが苦手で、楽器系から編入した私は、振り替え単位が思った以上に少なく、カリキュラムも過密になり、学校生活に自信を無くしてしまいました。また、大きく違ったのは、授業を受ける人数の少なさです。(今はその方が教育法としては効果的だと、考え直しています。)次第に、誰とも会いたくなくなり、授業も休みがちになっていったこともありました。

その頃、娘が生まれ、毎日、育児・炊事・家計そして勉強の事で頭がいっぱいでした。それでも毎日サークル(ウィンド・オーケストラ)に参加し、気分転換していました。大学祭では、サークルの屋台・発表、また音楽科文化系のステージ「Music of earth」の参加のため、ゴスペル・インストの編曲などを担当し、今でもいい思い出になっています。

授業は、娘の突然の発熱などで欠席も多かったと思います。でも、文化系の授業は次第に楽しいと思えるようになりましたし、また、その後の教員採用試験の勉強に役立つノートになりました。特に、文化系の実習活動・鬼剣舞の合宿などは音楽文化に触れる機会として、宮城学院の文化系でないと出来ない貴重な体験でした。


音楽科を卒業してすぐは、仙台市の臨時職員として、中学校の吹奏楽指導員をしていました。それだけでは収入が足りなかったので、他に不動産業のアルバイトもしていました。臨時職員の任期が終わると、正社員としてゼネコンで建築関係の事務をしていました。今でも住宅模型を作るのが得意です。

中学の頃から「音楽の楽しさを伝える仕事」に就きたいと考えていましたが、教員を志望する決定的な要因は、高校時代の部活の顧問の先生との出会いです。
高校受験に失敗し、「学校なんか辞めてやる!」と思っていた1年時。トランペットを通して、先生はいつも私を叱りつつ、それが私にとって「なにくそ!!」というやる気につながり、高校3年間を過ごしました。
その先生は、私に「なにかしてやった」という気は無いと思いますが、私はその先生のおかげで、学校生活を送ることが出来、進学することも出来ました。先生から受けた愛情を、同じように次世代に繋げられたら、と思い、教師を目指しました。人より遠回りしましたが、この秋、卒業後5年目にしてようやく、新潟県の教員採用試験に合格することができました。


目指す教員像としては、私が高校の顧問の先生から受けたように、生徒一人一人の声に耳を傾け、親身になって対応していける教師になりたいと思っています。


宮城学院に 編入してすぐ、出産・休学の相談を担任の先生にした時、「人生は卒業・就職・結婚・出産と順番が決まっているわけではないですし、人と違った生き方は大変かもしれませんが、頑張って下さい」という言葉を頂き、それを励みにしていました。確かに、変な順番で今まで生きてきましたが、一時は諦めかけていた試験に合格することが出来ました。本当に、諸先生方に感謝しています。

在学生のみなさんへ・・・

人生に「普通」と言う言葉はありません。自分の目指すところがあるならば、諦めないで努力し続けることが大事だと思います。


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