近世日本領主制の研究

 私の中心的な研究テーマは、近世日本における地方知行制(ジカタチギョウセイ)の研究です。主な研究対象は、地元の仙台藩です。

 江戸時代では、都市を指す「町方」という言葉の対語は、「地方」=ジカタであり、農村・農地・農政というさまざまな意味で使われました。そして「知行」とは、ヨーロッパ封建制における「封土」のような意味でありました。通説では、近世武士は在地を離れ城下町に住むようになり、封土=知行地を持たない「サラリーマン」的存在だったとされます。こうなったのは、大名権力の集中化の結果とする見方と、より根本的に近世的農村社会の熟成の結果とするなど、いろいろな説明は出せれていますが、近世武士の経済が封土・領土という不動産とその支配権の支給から、定額化された俸禄(米や金銀)の支給へと変わったとしている点が共通しています。

しかし、この学説は、かなり一面的だと言わざるを得ません。地方知行制を遺した藩は少ないとされますが、これらの藩が全国の大部分を占めていたため、近世社会の大部分において、地方知行制が採用されていたということになります。

宮城学院は、城下町仙台に位置しますが、仙台藩でも地方知行制が大きな歴史的役割を果たしていました。現在の宮城県全域、福島県の一部、および岩手県の北上市以南を占めていた仙台藩では、原則として百石以上の武士(つまり、馬上役)に地方知行が支給されました。知行高が多い家臣、おもに千石以上辺りからは、知行地に館および家臣や寺屋敷を宛てられ、そこで小さな城下町を形成していました。旧仙台藩領域内のおもな町が藩政時代のこのような小城下町として出発している。地域の経済や社会の中心となるような城下町はもたなくとも、中小の家臣でも、新田開発を通じて現在の宮城県の米所を作り上げてきました。また、明治維新後でも、在郷屋敷をもつ家臣が仙台城下からそこに引っ越し、地主となるなり、村の役人などになって宮城の近代史の一翼を担ってきました。江戸や戦前の身分制から大分年数は経っていますが、今でも地域社会のなかでこういう武士・領主の子孫が地元の人たちから特別の目でみられていることを経験しています。

17世紀後半までに、全国的に事実上否定されていたはずの地方知行制とそれを支える社会的関係は、曲りなりに現在まで生き残っているのがこの地域の現実です。古い学説で地方知行制のみならず、それを遺した地域社会までをややもすれば否定的な目でしかみることができなかった旧説に替わって、地方知行制が近世社会にとってどういう意味をもってかを、その実像と知られざる側面、あるいは忘れられた側面を新たに資料的に裏付けながら明にしていくのが私の研究の主要なテーマです。

私の領主制・地方知行制研究の主な業績は、次の文献です

『近世日本知行制の研究』 (清文堂.大阪 '88.3)

「幕府法・藩法・給人の法  仙台藩の給人自分仕置一件」(渡辺信夫編『近世の民衆文化と政治』河出書房新社、東京、1992

「近世領主制試論」(モリス、白川部、高野編『近世日本社会と知行制』(思文閣、1999

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