『学都仙台』の現状と今後
〜大学の郊外への移転と専門学校の中心地への集中を探る〜
宮城学院女子大学国際文化学科4年
18248 山崎恵子
はじめに
第T章 『学都仙台』に至る歴史的経過と市のシティーセールス
1節 『学都仙台』と呼ばれる由縁とは
2節 年表による歴史的経過から探る『学都仙台』
3節 仙台市のシティーセールス、『学都仙台』としてのアピール
第U章 立地調査から知る大学・短大の郊外移転と専門学校の中心地への集中
1節 仙台市内における高等教育機関の現況
1. 大学・短期大学の立地調査 2.専門学校の立地調査
2節 大学・短期大学の郊外移転と専門学校の中心地集中はなぜ起こるか
1.大学・短期大学の場合 2.専門学校の場合
第V章 『学都仙台』の今後
1節 仙台市における学生・学校同士の交流状況<学生である私自身の立場から>
2節 学生同士の活発な交流により創られていく新生『学都仙台』
おわりに
はじめに
仙台市は学生が多く集まる「学生の街」として知られている。実際、仙台市内を始めその近郊には多くの専門学校、短期大学や大学があり、街中を歩いていても多くの若者で賑わっており活気があるように思われる。
私は秋田県の出身であるが、短期大学選びをする時に仙台という都市がとても暮らしやすそうで、しかも勉強がしやすい環境である事に惹かれ仙台市近郊の短期大学を選んだ。当時、私が通っていた高校においても、学年の半数近くの生徒が仙台市内の大学、短期大学、そして専門学校のいずれかに進学していた。私の友人の大半も仙台市内の学校に進学したのだが、なぜ仙台を選んだのかと友人同士で話してみると、東京は都会すぎて恐いイメージがあり、それに比べ仙台は都会的な面もあるが、杜の都のイメージもあり環境が良さそうである、学生が多く勉強にも集中できそうである、というような考えを持っている人が多かったように思われた。これは単に、仙台という都市に対する憧れだけではなく勉
強に集中しやすい、緑が多く生活環境が整っているなど、現実的な面において仙台という都市を選んでいたように思われたのだ。私はこの頃から、なぜ仙台という都市が学生にこ
んなにも人気があるのかという事が気になり始めた。私は短期大学卒業後、編入学をするためさまざまな地域の大学を考え、実際に大学がある場所に足を運んだが、やはり環境の良い同じ仙台にある宮城学院を選んだ。
考えてみると仙台には旧国公立・私立の大学、短期大学を始め、専門学校など多くの学校が集まっている。では、なぜ仙台という都市にはこのように多くの学校が集まっているのか、また、それと関連して昔は仙台白百合短期大学(現:仙台白百合女子大学)、宮城学院女子大学などは賑やかな仙台市街の中にあったのだが、現在では仙台市近郊などの郊外に移転している。では、なぜ大学などが街中から郊外へ移転してきたのか、またその事と対比してなぜ専門学校は街中に多く集中しているのか、それには何か理由があるのか、それらについて探りたいと考え、論文を書き進めていく事にした。そのために、まず第1章では『学都仙台』に至るための経過について時代を追って見ていきたいと考えており、また、これらを書き進める以前に、仙台に集まる学生の多くが宮城県以外の他県から集まるように思われ、これは仙台市が“学都”のイメージを定着させ他県から多くの学生を集めるためのシティーセールスであるとも考えられるため、このシティーセールスという点にも注目していきたいと考えている。
第1章 『学都仙台』に至る歴史的経過と市のシティーセールス
1節 『学都仙台』と呼ばれる由縁とは
「仙台市」と聞くと私自身の中で真っ先に思い浮かぶのは人口百万人を越す政令指定都市であり、緑溢れる杜の都、そして同時に学生が多く集まり若者の活気で溢れる『学都』であるという事である。実際に街を歩いてみても、厚い教科書や参考書を手に友人達らしき仲間達と学校に向かう、多くの学生を見る事が多いように思われる。では、なぜ仙台市がそのような多くの学生達が集まる学びの都『学都仙台』となっていったのか、また『学都』という呼ばれ方をされるようになっていったのはいつ頃からなのか、『学都仙台』の形成とそのように呼ばれる由縁について時代を追って探っていきたいと思う。
まず始めに、『学都』という言葉から全国に目を向けてみると、仙台市の他に、全国的に『学都』として知られているのは京都市や福岡市であり、これらの都市がなぜ『学都』と呼ばれるのかについては、それぞれの都市の総人口に対し、学校に通っている在学者数はどれぐらいの割合であるかを数値で表し、その数値が高い都市が『学都』とされているからである。割合を求める計算式は(人口100人当たり学生数)=(学校に通う在学者)÷(総人口)×100で表される。
仙台市が発行している2002年度の市勢要覧によると、平成13年度の時点で仙台市内の全ての学校数は445校であり、学校に通う在学者数は約22万人で、総人口に対する在学者
の割合は政令指定都市の中で京都市、福岡市に次いで3番目に多くなっている。また、平成13年度時点で市内には16の大学・短大があり、学生数は4万8千人で、特に大学院生は約6千人となっており総人口に占める割合は京都市に次いで2番目となっている。[仙台市 2002:60]
以上の事から分かる事としては、私自身が漠然と思い描いていた『学都仙台』のイメージとは東北大学や東北学院大学などの多くの有名主要大学や短期大学、そして専門学校に通う学生が行き交う姿であるという観念だけにとらわれていたのだが、市勢要覧の数値を見ると、その中には全ての学校に通う在学者、つまり小学生から中学生、高校生までも全てが含められており、それらを総合して『学都仙台』と呼ばれているのだという事に初めて気づいたのだった。
また、先に挙げた仙台市が発行している市勢要覧によると、平成13年度の時点で仙台市内の総学校数は445校で、在学者数は22万人となっており、この割合は政令指定都市中第3位で、高等学校、専修学校においては1位であった。また、大学・短大の学生の割合も高く、特に大学院生においては京都市に次いで全国で第2位という結果であった。私はこれについて、この数字が表わす結果は果たして仙台市が意図的に導いているものなのか、つまり仙台市が多くの学生を呼びこむために独自のセールスや何らかのプロジェクトなどを行っているのか、もし、それらが行われていないとすれば先のような数値はどのような要因から打ち出されているものなのか、これらについて疑問を持った。この事については第3節の仙台市のシティーセールス、『学都仙台』としてのアピールの部分で詳しく述べていきたい。
以上、これまで数値的に『学都仙台』を見てきたのだが、では、なぜ仙台市が杜の都であると共に、『学都』として全国的に知られるようになっていったのか。次に、仙台市が『学都』と呼ばれるようになった由縁について時代を追いながら見ていきたい。
難波氏によると、仙台市が学都と呼ばれるようになった由縁について「学校教育の初めは1872年(明治5)の学制によるが、仙台が学都とよばれる理由は、特に中等・高等教育が充実し、東北の中心的役割を果たしたことにある。明治初年の洋学系の私塾や、東京に次いで開校された官立師範学校と官立外国語学校(いずれものちに県立)をはじめとして、1880〜1890年代のミッション系私立学校を中心に男女の中等教育機関が設立され、次いで県立の尋常中学校・高等女学校がつくられる。」[難波 1997;10]のであると述べている。
では、仙台においていつ頃から『学都』という呼び方をされるようになったのだろうか。明治5年の学制発布以前には仙台市において「学問の町」と呼ばれる事はあっても『学都』という呼び方をされた事はまだなく、その後、明治5年の学制発布により全国に小学校が設立され、やがて仙台にも明治6年(1874)6月15日、三番小学校(現在の上杉山通小学校)を革きりに次々と小学校が開校される事となる。全国に小学校が次々に開校されるようになった同じ明治5年に宮城師範学校、次いで明治6年に宮城外国語学校が創立された。明治7年(1874)には宮城外国語学校が廃止されると共に県立仙台中学校が創設され、こうして小学校などの整備に続き中学校も創立されるようになった。
その後、初等教育を終了した女子に対する教育機関とし明治12年(1879)裁縫塾の松操私塾(現: 朴沢学園明成高等学校)が開設され、同じく裁縫の私塾として明治3年(1870)北一番丁に開かれていた長谷塾が明治20年(1887)に私立学校創立の認可を受け長谷柳絮学校となった。両校の私塾は東北では裁縫教育の双璧と言われ、「小物習わば朴沢に、長物習わば長谷に就け」と称されたほどであった。共に創始者の優れた裁縫技術と一斉教授法が話題を呼んで北は北海道、南は九州まで全国から多くの学生を集めた。
また、難波氏が述べていたように1880〜1890年代においてはミッション系私立学校が多く創立され発達していく時期でもあった。この時代は欧化主義はなやかな頃であり欧米文化の流入もまた著しいものがあった。この頃創立されたミッション系私立学校としては明治19年(1886)キリスト教伝道者養成の目的をもって押川方義、ウィリアム・E・ホーイによって仙台市木町通りに開設された仙台神学校(現:東北学院大学)、同じ年に仙台で最初の女子教育機関である宮城女学校(現:宮城学院女子大学)などがある。明治26年(1893)にはカトリック教によるキリスト教主義の普通教育をほどこす事を目的として仙台女学校(現:仙台白百合学園)が設立された。この後の明治33年(1900)にも、先の仙台神学校や宮城女学校のようにミッション系には該当しないが私立東北法律学校(現:東北生活文化大学)が法律思想普及のため三島駒冶によって設立されたのだった。
以上、これまで『学都仙台』と呼ばれる由縁について大まかに見てきたが、ここで私自身の中で一つの疑問が浮かんだ。その疑問とは、難波氏は先の文章の中で仙台市が『学都』と呼ばれるようになった由縁について、特に中等・高等教育が充実し、東北の中心的役割を果たしたことにあり、明治初年の洋学系の私塾や、東京に次いで開校された官立師範学校と官立外国語学校をはじめとして、1880〜1890年代に設立された私立のミッションスクールなどについては述べているが『学都仙台』の形成において恐らく最も影響力のあった東北帝国大学の事については述べられていなかったからである。仮に難波氏が述べた文章の一行目の中等・高等教育という所の高等教育の部分に東北帝国大学が含まれていたとしても、少なくとも、この文章から東北帝国大学が『学都仙台』形成において大きな役割を果たしたのだという事を読み取る事は難しいのではないかと考えたからである。
私がこのような意見を述べた理由として『学都仙台の形成』=『東北帝国大学が大きな役割を果たした』というイコールの考え方は私だけに限らず恐らく多くの人々が瞬間的にそのような考えをもつであろうと思われたからである。
先に、私は難波氏が述べていた『学都仙台』形成に関わる文章の中で、『学都』となっていったのは中等・高等教育が充実し、東北の中心的役割を果たしたことにあり、明治初年の洋学系私塾である松操私塾や長谷塾、官立学校、宮城女学校や東北学院に代表される私
立のミッションスクールなどが『学都』形成に影響を与えた事などについては大きく取り
上げられていたが、恐らく『学都』形成において、大きな役割を果たしたであろう東北帝
国大学の事はその存在自体も明確に書かれていないのではないか、と述べた。しかし、そのような東北帝国大学が『学都仙台』の形成において、他の学校の先駆けのような存在を果たし、先に紹介した私立学校や官立学校が創られる以前に、もう既にその母体と思われるものが誕生していたという事実を、伊勢氏の文章の中から見つける事ができた。始めに、次の文章の中で伊勢氏が言う仙台医学館について説明しておきたい。仙台医学館とは文化年間(1801〜17)に当時の藩の学校である養賢堂から分離して現在の仙台中央警察署に創立された建物の事であり、2節で取り上げる自分自身で作成した年表の中でも掲載した。次に、文章の中身についてだが伊勢氏によると、「仙台医学館は、養賢堂の医学講師であった渡辺道可の建議によって創設されることになった。そして、そこには施薬所を、さらに末無掃部丁には薬園も附属施設として開されて、仙台藩校の医学の殿堂としての仙台医学校が開校したわけである。この医学校も、明治21年に設立された第二高等中学校医学部へ、さらに仙台医学専門学校から東北帝国大学医学部へと伝統を継いでいくことになる訳で、仙台市立病院が医学館のところに開設されたのも奇しき縁となる。」[伊勢 2001:66]
以上が私自身の意見であったのだが、次に『学都仙台』と呼ばれる由縁について少し話を戻していきたいと思う。
1880年から1890年代に仙台神学校(現:東北学院大学)を初めとし、宮城女学校(現:宮城学院女子大学)や仙台女学校(現:仙台白百合学園)などの女学校や東北法律学校(現:東北生活文化大学)などの私立学校が続々と設立され、その後尋常中学校・高等女学校なども設立されるようになる。それから程なくして明治40年(1907)には東京・京都に次いで全国で3番目に東北帝国大学が設立される事となる。斎藤氏によるとこの東北帝国大学の設立の目的は「国家の須要に応ずる学芸術を教授し、蘊奥を攻究する」にあり、大学こそは「一国富強の基をなすための無二の資本、至大の宝源」であり研究も「国家のことを最先にし、最重せざるべからず」[斎藤 1964;34]という国家主義的教育観に立って建学された、と述べている。この東北帝国大学の設置については、仙台市に於いて設置の決議が行われ、知事も「人材ノ方途を開発シナケレバ」と県民を挙げて東北帝国大学の設置を熱望した。斎藤氏は著書の中で、明治30年代の東北帝国大学設置に沸きあがる仙台市について、河北新報の次のような記事を取り上げている。「仙台は夙に学業が旺盛で教育機関が略整り、東北の教育地としては天下の認める所」(河北新報・明治30年5月15日)[斎藤 1964;34]この記事の中にはまだ『学都仙台』という言葉は出てきてはいないが、この頃から仙台市は教育に熱心であり、しかも教育機関が整っている、東北の中では誰もが認める教育に適した都市であるという事は知られていた事は間違いないであろうと思われる。
以上、『学都仙台』と呼ばれる由縁とは何かについて時代を追って述べてきたが、私自身
これまでは『学都仙台』と言うと、真っ先に、中心的な存在とされた東北帝国大学だけのイメージにとらわれていたような気がする。確かに斎藤氏が述べていたように、仙台市が
「天下も認める東北の教育地」として多くの人々に紹介され、その名が知られるようにな
ったのは東北帝国大学設置が県民によって熱望されるようになった明治30年代頃からであり、文化年間に東北帝国大学の前身と見られる仙台医学館が養賢堂から分離し創立されたのは『学都仙台』において、後に創立されるさまざまな学校に大きな影響を与えたのは間違いない事であるだろうと思われる。しかし、やはり1879年(明治12)に創立され、北は北海道から南は九州まで多くの学生を集めたとされる松操私塾や長谷塾に代表される私塾や1880〜1890年代に創立されたミッション系私立学校などの私学の発達が『学都仙台』の形成の上に大きな役割を果たしたことは、ほぼ間違いないと思われる。仙台市は教育においてこれらの経過を辿り、やがて明治40年の東京、京都に次ぐ第3の帝国大学である東北帝国大学の創立によって『学都仙台』は形成されていく事となるのである。
2節 年表による歴史的経過から探る『学都仙台』
◎歴史的経過についての年表
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慶長5(1600) 文化年間(1801〜17) 明治5(1872) 明治6(1873) 明治7(1874) 明治8(1875) 明治12(1879) 明治19(1886) |
伊達政宗、千代を仙台と改め居城 仙台医学館が養賢堂から分離して現在の仙台中央警察署に創立(一番町四丁目)この時、同時に施薬所も設置される<薬園も附属施設として設置> 学制発布により全国に小学校設立 宮城師範学校創立 仙台にも三番小学校(現在の上杉山通小)をはじめ次々と開校される 宮城外国語学校創立 宮城外国語学校廃止、県立仙台中学校創設 曹洞宗専門支校として仙台市荒町に創立(現:東北福祉大学) 朴沢松操裁縫塾創設(現:朴沢学園明成高校の前身) *裁縫の革新的一斉教授法創始 仙台神学校キリスト教伝道者養成の目的をもって仙台市木町通りに開設 (現:東北学院大学) |
1節では、『学都仙台』と呼ばれる由縁とは何か、について時代を追って大まかに述べてきたが、2節においては、『学都仙台』についての歴史的経過を追いながら探っていきたいと考え、下記のような年表を作成した。年表の作成にあたっては、下記に記した大学や専門学校の資料や文献、また仙台市の教育史などを基に自分自身で『学都仙台』に至る歴史的経過についてまとめてみた。
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明治19(1886) 明治20(1887) 明治23(1890) 明治24(1891) 明治26(1893) 明治29(1896) 明治32(1899) 明治33(1900) 明治35(1902) 明治36(1903) 明治40(1907) 明治41(1908) 大正5(1916) 大正15(1926) 昭和14(1939) 昭和15(1940) 昭和18(1943) 昭和20(1945) 昭和24(1949) 昭和25(1950) |
「宮城女学校」(現:宮城学院女子大学)設置認可 宮城女学校、仙台区東ニ番丁田辺氏邸にて授業開始 仙台第二高等中学校創立 *明治19年に全国に5校設けられた高等中学校の一つ 仙台神学校、東二番丁本願寺別院跡取得→仙台教会と仙台神学校をここへ移す(現:東北学院大学) 「宮城女学校」校舎建設のため仙台区東三番丁に2千4百万坪取得 教育勅語発布 東北学院、南町通りに新校舎完成(現:東北学院大学) 「私立仙台女学校」創立(現:仙台白百合女子大学) 曹洞宗専門支校(現:東北福祉大学)東二番丁に移転 私立学校令公布<公認学校における宗教教育の禁止> 東北法律学校(現:東北生活文化大学)設置認可を受け仙台市東ニ番丁に開校 宮城女学校、寮の浴場出火により校舎全焼、市内片平丁の寺木氏家屋を仮校舎として移転(現:宮城学院女子大学) 宮城女学校、授業開始のため「片平丁校舎」から移転 東北帝国大学創立→創立当初、キャンパスは片平丁キャンパスに理学部と工学部、北四番丁に医学部が設けられた。 曹洞宗第二中学林、南鍛冶町に校舎新築移転(現:東北福祉大学) 東北学院、南六軒丁(現:土樋キャンパス)に専門部校地取得 檀中学校、現在地(青葉区国見)に移転(現:東北福祉大学) 東北学院、南六軒丁に専門部校舎完成<土樋キャンパス本館> 東北薬学専門学校の設置が認可され(現:東北薬科大学)開設 東北学院、南町通旧神学部校舎及び敷地売却 宮城ドレスメーカー女学院、菅野貞子氏により仙台市一番町に創立(現:ドレメファッション芸術専門学校) 宮城ドレスメーカー女学院(現:ドレメファッション芸術専門学校)戦時下で宮城洋裁女学院と校名改称、芭蕉の辻に移転 宮城洋裁女学院(現:ドレメファッション芸術専門学校)空襲で校舎全焼、若林区連坊小路に再建 仙台簿記学校(現:菅原学園、仙台経理専門学校)創立 宮城洋裁女学院(現:ドレメファッション芸術専門学校)<仙台市常磐丁に新校舎完成> 聖和学園短期大学、まだ認可されていないが仙台市宮城野区木ノ下に校舎築かれる |
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昭和26(1951) 昭和27(1952) 昭和30(1955) 昭和32(1957) 昭和37(1962) 昭和39(1964) 昭和40(1965) 昭和41(1966) 昭和42(1967) 昭和43(1968) 昭和44(1969) 昭和46(1971) 昭和48(1973) 昭和49(1974) 昭和53(1978) 昭和55(1980) 昭和56(1981) 昭和60(1985) |
聖和学園短期大学開設認可される 宮城県農業短期大学創立 宮城学院女子大学、「保育科」及び附属幼稚園増築のため市内東ニ番丁の宅地を取得 宮城洋裁女学院、仙台市青葉区春日町に校舎新築(現:ドレメファッション芸術専門学校) 東北学院大学工学部多賀城町に設置 東北工業大学設置認可→創立 宮城学院女子大学、宮城郡宮城町芋沢字向田に土地1千坪取得 宮城洋裁女学院(現:ドレメファッション芸術専門学校)春日町校舎を改築 東北学院大学宮城郡泉町市名坂天神沢(現:仙台市泉区天神沢)に校地取得 国立学校設置法の一部を改正する法律により仙台市太白区富沢に宮城教育大学設置 三島学園短期大学(現在の、東北生活文化大学になる以前に大学と共に併設されていた)体育科、泉市丸田山校地へ移転 仙台大学、朴沢学園によって柴田郡柴田町船岡に創設<東北で唯一の体育系大学であり明治12年創設の松操私塾が前身> 東北電子計算機専門学校創立、当初中心地と郊外に点々と学校があった 宮城教育大学仮校舎(仙台市太白区富沢)から現在地青葉区荒巻に移転 宮城洋裁女学院、仙台市支倉町にドレメビル完成 東北薬科大学富谷校地(宮城県黒川郡富谷町)購入 国立学校設置法の一部を改正する法律により東北医療技術短期大学設置(仙台市青葉区星陵町) 三島学園(現:東北生活文化大学である三島学園)女子大学、女子短期大学、女子高校、全面的に泉市上谷刈(現:仙台市泉区虹の丘)に新築移転 「学校法人宮城学院理事会」は仙台市北西部の丸田沢(桜ヶ丘地区)への総合移転決定<大学・短期大学・高校・中学・幼稚園> 宮城デザイン専門学校「学校法人東北文化学園」設立認可される 「仙台スクールオブビジネス」東北初の総合ビジネス系学校として仙台市青葉区五橋に開校(現:北杜学園) 宮城ドレスメーカー専門学校(現:ドレメファッション芸術専門学校)の姉妹校として仙台市支倉町に「創表現専門学校EST」設立 東北学院大学、教養学部を泉校地へ移転する大学整備計画案を公表 聖和学園短期大学、仙台市宮城野区木ノ下から仙台市泉区南中山に校舎移転を行い完成 |
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昭和63(1988) 平成2 (1990) 平成6(1994) 平成9(1997) 平成10(1998) 平成15(2003) 平成16(2004) |
東北学院大学、泉キャンパス完成、大学教養学部移転 東北工科情報専門学校ならびに東北医療福祉専門学校(現:東北文化学園大学)仙台市青葉区国見に新キャンパス移転 東北工業大学二ッ沢キャンパス開設 東北薬科大学仙台市青葉区小松島3丁目購入 東北薬科大学仙台市青葉区小松島4丁目購入 宮城大学、黒川郡大和町に開学 仙台白百合女子大学・短期大学、仙台市青葉区花京院の地から仙台市泉区本田町に移転 東北工業大学香澄町キャンパス新築完成 国公立大学の法人化 |
以上が、自分自身でまとめた『学都仙台』の歴史的経過を探っていくための年表であるが、ここでいくつか説明書きをしていきたいと思う。
まず、文化年間(1801〜17)において、仙台医学館が養賢堂から分離して今の仙台中央署に創立された、とあるがこれについて、なぜ仙台市の中心地である一番町四丁目に創立されたかというと伊勢氏によると「元々東一・二番丁は侍町であったのだが、明治に入り侍町から商人の町へと転進した。しかし、そこはただの商人町ではなく、学問の町でもあった。この場所が選ばれたのは養賢堂と近い距離にあったことも一つの理由になろうと思う。」[伊勢 1987;66]と述べている。養賢堂というのは、諸藩がその藩の子弟を教育するために設けた学校の事であり、仙台藩にもこのような藩校があった。つまり、一番町という地が選ばれたのは、その場所が学問の町であったと同時に、藩の子弟を教育するために設けられたという養賢堂が近い距離にあったという総合的な理由からである事が分かった。恐らくこの「学問の町」という言葉が後の『学都仙台』の基になるのではないかと思われる。
また、明治6年(1873)において、仙台にも三番小学校(現:上杉山通小学校)を始め次々と小学校が開校されていった、とあるがこれについて開校された当時は現在のような立派な校舎などではなく、当時は財政難のため寺や民家に学校が開校されていた。就学率は極めて低く、明治6年において全国平均は28%、明治11年において全国で41%、仙台では23%であった。しかし、明治30年に刊行された河北新報の記事によると宮城県(仙台市が中心)の就学率は全国一であると報じられた。その後明治32年には全国の就学率が70%であるのに対し、仙台市においては86%、明治33年には仙台市においては男女の平均就学率が90%を超え、男子が94%、女子が91%という結果であった。私はここで一つの疑問が浮かんだ。明治11年において23%であった就学率が30年には全国一となり、その後は86%、90%、
と急激に就学率が上がっているのには何か市や県などの計画や政策があったのではないかと考えたからである。これについて大竹氏は「この飛躍的な就学率の向上は、行政当局のかなり強引な指導の結果であった。」[大竹 1989;93]と述べている。この言葉から、このような就学率の向上は自然に成されたものではなく、言わば行政当局により強制的に成されていったものである事が分かった。
また、この年表を作成していく上で私が注目したのは大学や短期大学、専門学校それぞれの学校の立地状況や移転などについてである。この事については、第2章の沿革調査から知る大学の郊外移転と専門学校の中心地への集中という部分で詳しく述べていきたい。
次の3節においては、仙台市が県外から多くの若者や学生達を呼び込むために、恐らく力を入れているであろうシティーセールスや『学都仙台』をアピールする事などを目標にしている仙台市の戦略プロジェクトなどを中心に仙台市が行っている取り組みについて述べていきたい。
3節 仙台市のシティーセールス、『学都仙台』としてのアピール
先の第1章、1節の『学都仙台』と呼ばれる由縁とは、の中で仙台市が発行している市勢要覧を取り上げ、その資料によると平成13年度の時点で仙台市内の全ての学校数は445校であり、学校に通う在学者は22万人で仙台市の総人口に占める割合は政令指定都市の中で京都市、福岡市に次いで3番目、高等学校、専修学校においては政令都市中、最も多くなっているという事を記したが、果たしてこれは仙台市が行っている市のシティーセールスの効果から見出されているものであるのか。もし仮にシティーセールスから見出されていないとするならば、先の資料にある政令指定都市の中の上位を占める『学都仙台』は、どういった方針から見出されているものなのか、3節においては、この点について考えていきたい。
まず始めに仙台市が行っているシティーセールスについてだが、最新版である平成16年度、仙台市実施計画の中の「シティーセールス戦略プロジェクト」によると仙台市が掲げる大きな目標は、世界的な都市間競争を先導する都市の魅力づくり、とされキーワードは都市の魅力、概要について、「本市は比較的都市資源に恵まれ、東北の中枢都市としての発展を続けてきたが、人口や経済の成長が落ち着きを見せる成熟社会においては、都市基盤の充実などに加え、都市の質を充実していかなければ、持続的な発展は望めない。世界的な都市間競争を先導し、本市が活力にあふれた国際都市として成長を遂げていくため、人やノウハウ、産業などの資源を絶えず呼び込み、世界に通用する都市の魅力を高め、都市のブランドを確立していくとともに、その魅力を効果的に内外にアピールしていく。」[仙台市 2004:20]とされている。
次に、具体的に仙台市が行っている事業については1.戦略的なプロモーションの実施(シティーセールス推進事業、仙台まち資源発見事業)、2.観光・コンベンション集客資源の充
実(観光、コンベンション集客戦略推進事業、悠久の流れ・広瀬川創生プラン策定・推進事業、杜の都の風土をはぐくむ景観形成推進事業)、3.産業誘致・経済交流資源の充実(産業立地促進事業、集客交流産業振興プラン推進事業)、そして4.学術・文化交流資源の充実(国際知的産業都市構想推進事業、仙台国際音楽コンクール開催事業、仙台城跡整備推進事業、最後に5.スポーツ交流資源の充実(仙台カップ国際ユースサッカー大会事業)、[仙台市 2004:20]などである。この事業の中で、自分自身が今回テーマとして取り上げた『学都仙台』ついてのシティーセールスに直接的に関連のあるものとしては4.学術・文化交流資源の充実の中の国際知的産業都市構想推進事業ただ1つである。この事業をもう少し分かりやすく説明すると、大学の最先端の科学技術や内発的な新産業が集積する国際的学際都市の魅力づくりを推進していこうとする事業の事である。
以上が、仙台市が実際に行っているシティーセールス戦略プロジェクトであるが、1番最初にこのシティーセールスを目にした時に、私自身が最初に思い描いていたようなシティーセールスとは少しかけ離れているという印象を持った。その理由としては、私はこの論文の書き出しである“はじめに”の中で仙台に集まる学生の多くが宮城県以外の他県から集まっているように思われ、これは仙台市が『学都仙台』のイメージを定着させ他県からより多くの学生を集めるためのシティーセールスであるとも考えられると述べたが、上記に示した、仙台市が実際に行っているシティーセールス事業においては『学都仙台』をアピールしていくものは4つめの学術・文化交流資源の充実の中の国際知的産業都市構想推進事業ただ1つであり、その他の事業としては観光や産業誘致、スポーツ交流など『学都仙台』には直接関わりのない事業ばかりで『学都仙台』を大々的に他県にアピールしていくような、シティーセールスが与える印象の強さというものは感じられなかったように思われた。事実、仙台市が取り組んでいるシティーセールスについての現状として仙台市都市総合研究機構が発行している資料の中で次のように述べられている。「仙台がシティーセールスに取り組んでいるとは言っても、外部から見れば“杜の都”といったイメージ以外、実態はよくわからないというのが現実的な評価である。よりまちの魅力の伝達方法の工夫と積極的かつ地道なPRが求められる。平成13年度に仙台都市総合研究機構で実施した仙台市民意識調査では、仙台の都市イメージとして“杜の都”に56.5%、“東北の中枢都市”に52.0%と、5割を超える人が挙げているのに対して、“学都”と答えた人は10.6%と1割程度である。仙台市民が学生のまちの認識に薄い実態であることがうかがえる。」[仙台市 2002:128]
ここから分かる事としては、仙台市以外に住む外部の人々は仙台市=杜の都というイメージだけにとらわれていて、それ以外の、仙台市=学都という認識を持っている人々は少ないという事であり、仙台市が行っている『学都仙台』としての外部へのシティーセールスは大きな効果を発揮していないという事である。また、先に挙げた文章からは、仙台市が学都としてシティーセールスを行う以前に根本的に改善していかなければならない問題
点というものも同時にクローズアップされている。ここでいう改善すべき問題点というのは仙台市民が自分達の住む都市を学都として認識していないという事である。実際、私が在籍しているゼミにおいても仙台市出身の学生で自分の住んでいる都市が学都であるという事を認識していた人は皆無に等しかった。その都市に住む市民の人々が自分達の住む場所が学都であるという事を十分に認識していないのに、どうして外部の人々へ学都としてのアピールができるだろうか。この点を改善していく事で『学都仙台』としてのよりいっそうの発展が望めるのではないかと考えたのだった。
以上、ここまで見てきて、私は1つの疑問が浮かんできた。私はこの節の始めに現在において仙台市内の学校数は445校で在学者数は22万人であり、それは政令都市中1位、大学・短大においても割合は高く、大学院においては全国で2位であるというように、仙台市は現在において高い教育水準を誇っているという事を挙げ、これは仙台市が行っているシティーセールスから来るものなのか、そうでないとすればどういった点から導き出されているのかという問題提起をしたが、これについては仙台市が行っているシティーセールスから導き出された結果ではないという結論に至った。
では、この結果は一体どこから導き出されているものなのか、これについて私はより身近なものに目を向けてみた。すると、新聞の端に載っているそれぞれの大学や専門学校などを紹介する記事、地下鉄やバスに張られている学校のポスターや広告、また個々の学校がそれぞれ試行をこらした独自のパンフレットなど、多くの学生達を呼び込むためのアイテムが多く存在している事に気づいた。確かに私自身、進学のために仙台に行きたいと思い立ったのも、『仙台=学都』で学生が多く勉強がしやすいだろう、という要因があったのも事実だが、考えてみると、やはり進学先を決定づけた一番の要因は自分がその学校に行きたいと考えたからであり、それを後押ししたのはその学校の広告やポスターを始め、学校の様子を知る事ができるパンフレットなど、個々の教育機関によるアピールからであったように思われたのだった。
つまり、現在において多くの学生達が仙台という都市に集まるのは行政が行っているシティーセールスによるものであるとは考えにくく、それよりはむしろ個々の教育機関が発行しているポスターや広告、独自のパンフレットなど、それぞれの教育機関のアピールの力によるものであるという結論に至った。
最後に、これは私の独断的な意見になってしまうが、先に挙げた『学都仙台』をアピールするための国際知的産業都市構想推進事業の内容について、“大学の最先端の科学技術”や“内発的な新産業が集積する国際的学際都市”など言葉がよく分かりにくく、一目見てその内容を理解するのは難しいような少し堅い印象を受けた。この事業においては誰もがすぐに理解できるような言葉に置き換えるなど仙台市を始め、他県の学生達にも内容や事業について深く浸透し、より良く理解してもらえるように、もっと分かりやすく身近な所から『学都仙台』というものをアピールしていく必要性があるのではないかと思われた。
そのためには市や県などの行政だけではなく、仙台市民の正しい実態認識と理解とが求められ、それら相互の協力によって今後、より多くの学生達を仙台市に呼び込む事ができるのではないかと思われる。
第2章 立地調査から知る大学・短大の郊外移転と専門学校の中心地への集中
1節 仙台市内における高等教育機関の現況
私は第1章1節の『学都仙台』と呼ばれる由縁とは何か、の中で仙台市が発行している市勢要覧について取り上げ、平成13年度の時点で仙台市内の総学校数は445校で、在学者数は22万人となっており、この割合は政令指定都市中第3位で、高等学校、専修学校においては1位であった。また、大学・短大の学生の割合も高く、特に大学院生においては京都市に次いで全国で2位という結果であった、という事を述べた。
ここから分かる事としてはやはり仙台市が多くの学生達が集まる『学都』だという事であるが、ここで取り上げた市勢要覧の資料においては仙台市内の小学校・中学校・高等学校・そして大学・専門学校など、全ての教育機関の総学校数や総在学者数が書かれており、私が今回論文のテーマとして取り上げている大学や短期大学・専門学校などの高等教育機関について限った数値については書かれていなかった。そこで、高等教育機関のみに限った集積状況について書かれた、仙台市経済活性化・雇用政策委員会の資料について見てみると「現在、仙台市内に所在する86の高等教育機関には、合計で7万5千人強の学生が在籍し、うち大学生(院生含む)は4万6千人で市内人口の4.5%を占める。この人口あたりの学生数でみると、政令指定都市の中でも仙台市は、京都・福岡・東京に続き第4位となっている。また、大学院生に限れば、人口あたりの大学院生数は京都に次いで第2位、専修学校・各種学校の学生も大阪に次いで第2位となっており、『学都仙台』の名にふさわしい人材育成の拠点を形成しているという事ができる。また、全国的な少子化の流れや、国際競争にさらされる産業界からの産学連携の要望などに応える形で、仙台圏域の17大学が参加し、学生に対し、より広い視野での単位取得を可能とする「学都仙台単位互換ネットワーク」や、東北大学を中心とした大学の持つ技術シーズを産業界に移転するための、東北大学未来科学技術共同研究センター(NICHe)や東北テクノアーチの活動等、先進的な取り組みも多く行われている。仙台市は、政令指定都市の中でも15〜24歳の若年者の比率が非常に高く、これらの高等教育機関の集積を持つ『学都』の面を持つと同時に、ここで学ぶ若年者を多く抱える「若者のまち」という側面も併せ持っている。」[大滝 2002;11]
ここから分かる事としては、仙台市においては小学校・中学校・高等学校・大学・専門学校など、全ての教育機関を含め、総学校数、在学者数ともに、政令指定都市中のみならず全国的にもトップクラスであり、それは大学・短期大学・専門学校だけに限った高等教育機関においても同じ事が言え、これらの結果により仙台市が『学都』と言われ
る要因がはっきりと示された。
また、仙台市における高等教育機関の現況として私が一番注目したのは大学や短期大学
などが仙台市の中心地から郊外の地へ次々と移転されているのに対し、専門学校などは郊外に立地しているケースもあるが、大半が仙台市の中心地に学校が立地されている事である。これらの学校の立地状況や移転の状況において何らかの意図があるのか、これらの事について、調査した大学・短期大学や専門学校の立地状況や沿革調査などを基に探っていきたい。そこで、まず始めに、自分自身で独自に調査した仙台市の大学や専門学校の所在地から、立地調査を行って行きたい。
1.大学・短期大学の立地調査
2004年現在、仙台市内にある大学・短期大学の所在地を調査し、その所在地から学校
が仙台の中心地にあるか、または郊外にあるかで区別してみた。その学校が中心地にあるか、郊外にあるかをどのように区別するのか、については中心地=旧仙台城下町の範囲であった地域とし、郊外=旧仙台城下町の範囲外である地域とした。上記では範囲を仙台市内と記したが柴田郡柴田町にある仙台大学と黒川郡大和町にある宮城大学は宮城県の他の市には属さないためここでは仙台市内にある大学として加えた。
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◎郊外にあるキャンパス |
◎中心地にあるキャンパス |
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宮城学院女子大(青葉区桜ヶ丘)、東北学院大(泉区天神沢)、東北薬科大(青葉区小松島)、 東北福祉大(青葉区国見)、東北文化学園大(青葉区国見)、仙台白百合女子大(泉区本田町)、東北生活文化大(泉区虹の丘)、仙台大学(柴田郡柴田町)、東北工業大学(太白区香澄町)、同(太白区ニッ沢)、宮城教育大学(青葉区荒巻)、宮城大(黒川郡大和町)、東北大(青葉区荒巻)、聖和学園短大(泉区実沢) |
東北学院大(青葉区土樋)、東北大(青葉区片平)、同(青葉区星陵町)、同(青葉区堤通雨宮) 、同(青葉区川内)、東北大医療技術短大(青葉区星陵町)
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その結果、仙台市内にある大学・短期大学の総数は14校でキャンパス数で数えると20であった。中心地に数えられるのは、青葉区土樋にある東北学院大学の土樋キャンパス、青葉区片平、青葉区星陵町、青葉区堤通雨宮町、青葉区川内にある東北大学の4つのキャンパス、同じく青葉区星陵町にある東北大学医療技術短期大学の星陵キャンパスの6つである。
これを割合で表わしてみると全体のキャンパス数20に対し、中心地にあるキャンパスは6つで、これにより中心地に大学・短期大学がある割合は全体の30%であった。これに対
し、郊外にあるキャンパスは全部で14であり、これを先程のように割合で表わしてみると全体のキャンパス数20に対し、その割合は70%という結果になった。
上記の結果から分かる事として、大学・短期大学の立地については中心地に立地しているキャンパスは全体の30%、それに対して郊外に立地しているキャンパスは全体の70%と
郊外に立地しているキャンパスの数は中心地に立地しているキャンパスの数の約2.3倍にも昇る事が分かった。ここから「大学の郊外への移転増加」がはっきりと示された。次に仙台市内における専門学校の立地状況について見て行きたい。
2.専門学校の立地調査
仙台市内にある専門学校についても先の大学・短期大学の立地調査のように学校が中心地にあるか、または郊外にあるかで同じく区別してみた。黒川郡大和町にある東北理工専門学校については宮城県の他の都市には属さないためここでは仙台市内にある学校とした。
◎郊外にある専門学校 ◎中心地にある専門学校
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赤門鍼灸柔整専門学校(青葉区川内)、仙台接骨医療専門学校(宮城野区原町)、仙台ヘアメイク専門学校(太白区長町)、東北理工専門学校(黒川郡大和町)、赤門自動車整備専門学校(青葉区川内)、花壇自動車整備専門学校(青葉区花檀)、仙台医療技術専門学校(太白区長町)、仙台リハビリテーション専門学校(泉区長命ヶ丘)、仙台理容美容専門学校(太白区富沢)、中央理容美容専門学校(宮城野区原町)、宮城調理製菓専門学校(青葉区葉山町)、東北文化学園専門学校(青葉区国見) |
国際マルチビジネス専門学校(青葉区中央)、仙台情報ビジネス専門学校(青葉区本町)、 仙台総合ペット専門学校(青葉区本町)、仙台 福祉専門学校(青葉区本町)、専門学校デジタルアーツ仙台(青葉区本町)、専門学校日本ビジネススクール仙台校(若林区新寺)、専門学校創表現研究所est(青葉区春日町)、東京IT会計専門学校仙台校(青葉区中央)、東京法律専門学校仙台校(青葉区中央)、東北外国語専門学校(青葉区五橋)、東北電子専門学校(青葉区花京院)、モイ・ジャパン美容学校(宮城野区榴ヶ岡)、仙台医療福祉専門学校(青葉区中央)、仙台医療秘書福祉専門学校(宮城野区榴ヶ岡)、仙台大原簿記公務員専門学校(青葉区中央)、仙台デジタルテクノ専門学校(若林区新寺)、仙台デジタルビジネス専門学校(若林区新寺)、仙台ビューティーアート専門学校(宮城野区榴ヶ岡)、仙台法経専門学校(青葉区上杉)、仙台幼児保育専門学校(青葉区木町)、 仙台リゾート&スポーツ専門学校(宮城野区榴ヶ岡)、専門学校仙台カレッジオブデザイ ン(宮城野区五輪)、専門学校宮城高等歯科 衛生士学院(青葉区国分町)、東北歯科技工士 専門学校(太白区向山)、長谷柳絮医療福祉 門学校(青葉区支倉町)、文理ランドスケープ園芸専門学校(青葉区本町)、宮城文化服装専門学校(若林区荒町)、東北愛犬専門学院(宮城野区榴ヶ岡)、ドレメファッション芸術専門学校(青葉区春日町)
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自分自身で調べた所によると、仙台市内にある専門学校はおよそ41校であり、これら専門学校についても先の大学・短期大学と同様に学校が中心地にあるか、郊外にあるかで区分けしてみた。その結果、仙台市内にある専門学校の総数41校に対し、中心地に数えられるのは29校で、これを割合で表わしてみると、学校が中心地にある割合は約71%であった。また、これに対し郊外にある学校は12校で、これを割合で表わしてみると29%という結果になった。
これらを比較してみると、大学の中心地率=30%、郊外率=70%、に比べ専門学校は中心地率=71%、郊外率=29%と大学・短期大学と専門学校の中心地と郊外にある割合は正反対であり、中心地率と郊外率が逆転しているという結果が出た。
以上の事から、郊外に集中している大学に対し、専門学校は仙台駅付近の中心地にある場合が多く、専門学校において“郊外”というのは原町、五輪、榴ヶ岡、葉山町、長町など、全て郊外移転した大学よりも市街地に近い地域で、JRや地下鉄で行きやすい。そのため同じ郊外とはいえ、山の上に追いやられた大学より交通の便の良い所ばかりである。次の第2節では上記の結果より示された大学の郊外への立地と専門学校の中心地集中について、大学の中心地から郊外への移転状況も含め具体的に述べていきたい。
2節 大学・短期大学の郊外移転と専門学校の中心地集中はなぜ起こるか
第2章、1節の「仙台市内における高等教育機関の現況」の中で私が一番注目したのは、大学の中心地から郊外への移転と、専門学校の中心地への集中についてであるがこの節ではこれらの問題について探っていきたいと思う。
1.大学・短期大学の場合
まず、始めに大学・短期大学の状況についてであるが、大学・短期大学の立地状況の最近の動向を、仙台都市総合研究機構による著書では次のように述べられている。「市内の各大学の立地場所を調べると、仙台駅から3km圏内にある大学等は6校で<注;私自身が調査した所では中心地に立地している大学・短期大学のキャンパスは5校であったがここでは中心地圏内の設定条件が違うため、結果が異なっている>他校は周辺部に立地している。平成8年に開学した県立の宮城大学は、泉区に隣接していることもあり、仙台の大学を語る上で欠かせない存在である。昭和40年代後半から6校の大学等が移転しており、また、中心部に位置する大学でも移転を検討しているところもあることから今後も大学の郊外化は進むと予想される。他都市の事例にもあるように、大学間の距離が遠くなると、大学間の連携、社会人入学、公開講座等を実施する場合などに拠点となる施設が必要になるよう
である。現在の大学等の立地状況からみて、将来的には上記の施設が必要になってくると予想される。[小林 1999;22]
この事から大学・短期大学については、昭和40年代後半から多くの大学・短期大学が中心地から郊外への移転を行っている事が読み取れたが、この昭和40年代後半の時期に何かの出来事があったのか、それとも何か国の条例や政令が出されたのか、先のように同じような時期に、一気に中心地から郊外への移転が行われるのには何らかの理由があったので
はないかと考えたからである。この事については各大学・短期大学の中心地から郊外への移転の部分で詳しく述べていきたい。
では、次にこのような大学の郊外へのキャンパス移転についてもう少し詳しく見ていきたい。先に述べた仙台都市総合研究機構が発行している別の著書では大学の郊外へのキャンパス移転についてさらに詳しく述べている。「大学施設の新増設事業を行う際、他都市ではキャンパス敷地内に新たな用地を取得することが難しいことから、市域を越えて校舎や施設が設立されているケースも多い。大学本部は市内にあるが、ある学部については別な市町村に設置されているというかたちである。仙台市においては、各大学は既に比較的前に市内中心部からの移転を済ませており、大学改革の動きが活発化してきたここ10年程度は目立った大学の移転等はない。各大学も施設等の新増設の用地は現在のキャンパス内に取得できる。その反面、それぞれの大学が地理的に離れてしまっていることが、大学間の交流にはマイナスの要因となっているとも考えられる。」[小林 2002;43]
ここから分かる事としては、中心地などに立地する大学が施設の新増設を行う際には、その限られた敷地内に用地を取得するのは難しく、市外に新たな校舎や施設が設立される場合が多いという事である。それらは、大学本部は中心地にあるが、ある学部は市外など別の場所に設置されている事が多くなっているという事である。
先の文章の中で小林氏は、大学施設の新増設における他市町村への学部移動について “他都市では”と書いているがこのような動きは仙台市にある大学でも実際に起こっている。例えば、東北大学においては他市町村への学部移動ではないが本部のあるキャンパスを中心にその周りに点々と別のキャンパスが存在しているという状態である。キャンパスは全部で5つあり、本部及び研究所群のある片平キャンパス、文系学部のある川内キャンパス、工学部・理学部等のある青葉山キャンパス、そして農学部のある堤通雨宮町キャンパスがあると言った具合である。また、東北学院大学においても、中心地に位置し本部のある土樋キャンパス、文学部・経済学部などの1・2年生を始め教養学部の学生が通う泉キャンパス、そして工学部の学生が通う多賀城キャンパスである。私の推測ではこのようなキャンパスの立地を行っている学校は多くの学部・学科を持つ総合大学であると思われる。
また、先の小林氏が述べた文章の中に、私が今回の論文のテーマに選んだ『大学の郊外への移転はなぜ起こるか』の疑問に対するヒントのようなものが書かれている事に気がついた。それは「大学施設の新増設事業を行う際、キャンパス敷地内に新たな用地を取得す
ることが難しいことから、市域を越えて校舎や施設が設立されるケースも多い。」という部分である。つまり昔は仙台市の中心地にあった大学や短期大学において段々と施設や設備を充実させていく事によって学校自体も拡充されていき、その中の限られた敷地内において新たに土地を取得するのには、中心地である事から経済的にも大きな負担となる上に、学校が建てられていた場所が元々そんなに広い土地ではないとすると、それ以上の拡充は不可能としか言いようがなく、それらの理由から、土地が比較的安く手に入る上に大学などの施設や設備を広々とゆとりを持って設置する事のできる郊外へと移転を始めたのではないか。これは私自身の独断的な意見にすぎないのだが、実際は大学や短期大学などがどのような理由により、中心地から郊外への移転をし始めたのか、具体的に個々の大学や短期大学の立地状況などを追いながら、それらについて文献・資料などを基に述べていきたい。尚大学・短期大学の順番は、私自身が調査した順番であり、順不同とした。
まず、宮城学院女子大学についてだが、この大学は中心地である青葉区中央4丁目(現;国際ホテル)から郊外である青葉区桜ヶ丘へと移転した大学であり、その移転は昭和49年(1974)の「学校法人宮城学院理事会」によって決定された。移転の理由としては1.戦後の教育制度の改革により、総合学園に発展する途上において文部省令により設置基準による諸施設の拡充があった、2.中心部の校地は騒音・排気ガス等の公害を受け教育環境としては極めて好ましくない、1.に重複する部分もあるが3.文部省から「校地が狭隘であるから校舎の移転につとめるように」との文書、4.学校の教育の将来を総合的に展望し、最も望ましい教育環境地での教育を行う、ためなどである。
東北学院大学については、大学の本部は中心地である土樋キャンパスに設置されており、文学部・法学部などの1・2年生や教養学部の学生が通う、泉区にある泉キャンパス、また今回はキャンパスを仙台市内に限っているため範囲内には入っていないが工学部は多賀城市にあるキャンパスに設置されている。この中で中心地から郊外への移転はないが工学部=多賀城キャンパス、教養学部=泉キャンパスに見られるような郊外へのキャンパス設置の動きが見られる。これらの郊外へのキャンパス設置の動きは昭和37年(1962)多賀城への工学部設置、昭和40年の宮城郡泉町市名坂天神沢(現;泉区天神沢)に校地取得、の時期から始まったと思われる。昭和21年(1946)にも小学校から大学を含む大東北学院建設の夢を68万坪の八木山校地入手にかけたが実現をみることはなかった。そして先に述べた、郊外へのキャンパス設置の理由についてだが、大学の公式資料によると、昭和37年(1962)多賀城に工学部新設の理由はキリスト教精神に立つすぐれた技術者を世に送るためとしている。また昭和40年代前半の世界的出来事である「大学紛争」の激しい嵐にさらされ、それに対処してこの時期に施設・設備の拡大と充実も図られるようになったと説明している。(校舎・教室・研究室・礼拝堂など、特に泉総合運動場の整備に力を入れた)。公式資料による第三の理由として、東北学院は創立100周年を契機として建学の精神を継承しキリスト教的人材の育成を堅く決意している。そのためにも大学は教養部の泉移転と教養学部の新設を計画した、など、これらは全て表面的理由であり極めて抽象的な説明としか考えられない。
大学の公式資料が掲げるどの理由(これらの理由は大学当局の公式の見解であると思われる)を見ても、それが多賀城や泉にキャンパス設置のための土地を取得する直接の理由になるとは考えにくい。むしろ、それらの土地を取得するだけの資金があった事はより重要であり、また学生が急増した第二次ベビーブームへの対応もあったと思われる。
また、東北学院大学の郊外移転に際立った特徴がある。他の大学は中心地にあった本部(都市部キャンパス)を郊外に移転し拡張を行ったのに対し、東北学院大学だけは都市部キャンパスを手放さず、さらに郊外においても拡張を行ったのである。これらの事から東北学院大学の、他の大学とのはっきりとした違いが分かる。
東北薬科大学は昭和14年(1939)に青葉区小松島に創立され、昭和46年(1971)に富谷校地(黒川郡富谷町)を購入しているが、これは郊外への移転の動きではないかと思われた。しかし、その後平成6年(1994)に青葉区小松島3丁目、平成9年(1997)に青葉区小松島4丁目を購入と目立った移転の動きはない。
東北福祉大学は明治8年(1875)曹洞宗専門支校として中心地である若林区荒町に創立され、明治29年(1896)に東ニ番丁に移転、明治41年(1908)に南鍛治町に移転、そして大正15年(1926)に現在地である青葉区国見に移転された。その移転の理由としては、大学の発展と施設・設備の充実のためとされている。
仙台白百合女子大学は明治26年(1893)「私立仙台女学校」として青葉区花京院に創立されたが、その後あまり目立った動きはなく平成10年(1998)に青葉区花京院から泉区本田町へ移転された。移転の理由としては1.時代と社会の要請に応じるため、2.素晴らしい環境のもと、更なる学園の発展を図るため、とされている。
東北生活文化大学は明治33年(1900)東北法律学校として青葉区東ニ番丁に開校され明治36年(1903)には東北女子職業学校が東三番丁に創設された。その後、昭和41年(1966)には三島学園の短大体育科が泉市丸田山校地への移転を行い、昭和49年(1974)に女子大学・女子短期大学・高校、全面的に泉市上谷刈(現:泉区虹の丘)に移転を行った。移転の理由ははっきりと明記されてはいないが、移転状況から察するに、恐らく大学・短期大学・高校全てを同じ敷地に広々と建設するためと、施設や設備の拡充ではないかと思われる。
仙台大学は昭和42年(1967)に朴沢学園によって東北初の体育系大学として、柴田郡柴田町船岡に創設された。仙台大学に関しては移転などの目立った動きはないが、仙台市から遠く離れた郊外にキャンパスを設置した事に関しては教育環境が良い所と、施設・設備の充実のため、としている。
東北工業大学は昭和39年(1964)に認可され創立された学校である。平成2年(1990)に太白区内にニツ沢キャンパスが開設され、平成15年(2003)には太白区八木山に香澄町キャンパスが新築完成された。キャンパスが郊外へ設置された理由としては明確に書かれてはいないが、恐らく「ハイテクリサーチセンター」などに代表される大規模な研究施設の設置のためではないかと思われる。
宮城教育大学は、昭和40年(1965)に国立大学設置法の一部を改正する法律により
太白区富沢に設置され、昭和43年(1968)に仮校舎(太白区富沢)から現在地である青葉区荒巻に移転された。宮城教育大学に関しては、比較的郊外から郊外への移転であるように思われる。
宮城大学は平成9年(1997)に県立大学として黒川郡大和町に開学された。なぜ中心地から遠く離れた郊外へ大学を設置したのか、については緑豊かな環境と地域社会に貢献するための教育を行う事、そして研究の充実のためとされている。
聖和学園短期大学は昭和25年(1950)にまだ認可されていない段階で宮城野区木ノ下に校
舎が建設され、昭和26年(1951)には開設が認可された。昭和38年(1963)には保育科も増設されるがその後、高校の生徒数増加に伴い昭和51年(1976)に鉄筋コンクリート6階建ての校舎を建築した。この校舎新築は従来聖和にはない明るさ、解放感をアピールし、第2次ベビーブームとも相まって入学希望者を飛躍的に増加させた。このため、もはや木ノ下校地では限界があるとし昭和60年(1985)に短大を現在の校地である南中山に移転する事を決定した。聖和学園が出版している著書の中では「現在の校舎がある南中山は西は奥羽山脈大東岳を遠望できる風光明媚な高台にあり、北は仙台市民の憩いの場。(はっきりとした証拠はないが)泉ヶ岳が指呼の間にあり(後略)このような桃源郷かとも思われる環境に移転した」[松田 1996;3]と書かれている。この言葉からも移転にするにあたって、周りの自然環境などの部分も重視した事が分かる。移転の理由を総合的に判断すると1.第二次ベビーブームと校舎新築による入学希望者の飛躍的な増加のため木ノ下校地では限界があった、2.他方では立地環境の良さも強くアピールしているため、郊外のキャンパスの教育環境の良さからであるとも考えられる。
東北文化学園大学は昭和53年(1978)に宮城デザイン専門学校として設立され、平成2年(1990)に仙台市中心部から現在地である青葉区国見に移転された。この時校名を東北工科情報専門学校並びに東北医療福祉専門学校に改称した。そして平成11年(1999)に東北文化学園大学が開学された。移転の理由として通学至便の地にありながら、今なお緑を残す恵まれた教育環境と施設の充実のためとされている。
最後に東北大学についてだが、現在の東北大学のキャンパスは、片平キャンパス、堤通雨宮キャンパス、青葉山キャンパス、川内キャンパス、星陵町キャンパスの5つであるが、東北大学の創立は明治40年(1907)の東北帝国大学創立にさかのぼる。創立当初は片平丁キャンパスに理学部と工学部が設置され、北四番丁キャンパスには医学部が設置された。その後大正5年にはキャンパスは片平丁キャンパス、北四番丁キャンパス、そして六軒丁キャンパスの3つになり、昭和22年(1947)には東北帝国大学が東北大学となる。その後、さまざまざな施設や研究所等の拡充なども活発に行われる事になる。以上、見たところ片平丁キャンパスは創立当初から立地的な変更は見られないが、北四番丁キャンパスが堤通雨宮キャンパスや星陵町キャンパスにとって変わるような形になっており、またその他の青葉山・川内キャンパスに至っては学部が時代と共に郊外へ移転するケースも見られた。このような移転の動きは東北大学の発展と共に学部・研究所等の設置拡大などによる外面的拡充によるものであると考えられる。
以上、大学・短期大学の中心地から郊外への移転について見てきたが、大半の大学・短期大学においての移転の理由としては、中心地に比べ郊外の方が緑が多く教育環境に適している事、また大学の更なる発展のため、そして最後に施設・設備の拡充、などがほとんどを占めていた。第1章2節の自作年表の中においては大学・短期大学などの中心地から郊外への移転の時期が昭和50年代から60年代に集中していたが、その理由を聖和学園の
著書の文章の中から探る事ができた。それは次のような文章である。「昭和51年、鉄筋コンクリート6階建(3,598平方メートル)の新校舎が建築され、この校舎新築は、従来の聖和にはない明るさ、解放感をアピールし、第二次ベビーブームと相俟って、入学希望者を飛躍的に増加させることとなった。」つまり聖和学園において第二次ベビーブームと相俟って入学希望者が飛躍的に増加したのは昭和50年頃からの事であり、これは他の大学・短期大学の中心地から郊外への移転が集中した時期と重なる。つまり大学・短期大学が“施設・設備の拡充”を行ったのは昭和50年〜60年代頃の大学・短期大学への入学者の飛躍的な増加によるものであり、それは第二次ベビーブームによってもたらされたものであると考えたからである。今までに見てきた各大学の移転の理由の中には「各大学の公式見解」というものも存在していたが、やはり客観的に見れば、時代的な要請の中で起きた現象であると考えられる。これらの事により、大学・短期大学の中心地から郊外への移転理由としては1.中心地に比べ郊外の方が緑が多く教育環境に適している点、2.大学・短期大学のそれぞれの学校の更なる発展のため3.第二次ベビーブームの影響による飛躍的な入学者の増加により、以前までの校地では限界とされ大学・短期大学の施設・設備の更なる拡充が必要になったためである、と考えられる。
2.専門学校の場合
次に、仙台市内における専門学校の立地状況の最近の動向についてだが上記と同じく仙台都市総合機構による著書では次のように述べられている。「専門過程の生徒数の規模は仙台市内の大学生・短大生の合計と併せた学生数の中でも41%を占めると言われている。専修学校は医療福祉、情報通信をはじめとする時代の多様な教育ニーズに応える専門教育・実務教育を行うとともに、量的にも高等教育の中で重要な役割を担っていると言える。宮城県の専修学校の生徒数が人口に占める割合は高く、学校の立地の1つの特徴として県内専修学校は仙台市内に集中している。このことから、仙台の専修学校の集積の広域拠点性の高さがうかがえる。また、専修学校は都心部立地が多く、中心街の活性化の面からも注目される存在である。今後、少子化の影響あるいは、社会人再教育等生涯学習ニーズの高まりなどへの対応が経営の課題となっていくものと見られる。」[小林 1999;25]
ここから分かる事としては、次々に中心地から郊外へと移転していく大学・短期大学に対し、専門学校は都心部である中心地に立地されている事が多く、これにより仙台市における専門学校の集積の広域拠点性の高さが伺えるという事である。では、なぜ専門学校は中心地に多く立地されている事が多いのか。この事について、先の大学・短期大学の例に習い、専門学校の立地や移転状況(恐らく大学などに比べ大規模な移転はないと思われるが都心部内などにおける移転など)を追いながら探っていきたいと思う。第2章1節の専門学校の立地調査では仙台市内における専門学校の総数は41校と記したが、これら全ての専門学校の立地や移転状況などについて述べていくのは困難と判断し、ここでは4つの専門学校を取り上げそれらについて述べていこうと思う。取り上げる前提として、資料やパンフレットなどから立地や移転状況などについてきちんと状況が把握できる学校である事とした。まず、1つめに取り上げたのは、3000名以上の在校生を抱え、ビジネスとマルチメデ
ィアの総合学園と呼ばれている東北電子専門学校である。まず始めに沿革についてだが、昭和43年(1968)に東北電子計算機専門学校が創立し(創立当初は仙台市の中心部を拠点に仙台市郊外など、さまざまな所に分散して校舎があった)、昭和58年(1983)大型コンピュータACOS-750を導入、平成元年(1988)仙台市青葉区花京院に新校舎が竣工され、それと共に超大型コンピュータACOS-910が導入された。その後平成4年(1992)に東北初の衛星通信教育システムが導入され平成7年(1995)に日本初の「認定CG教育校」に認定され平成13年(2001)には東北電子専門学校に校名が変更された。
東北電子専門学校は創立当初は仙台市中心部・郊外とさまざまな場所に学校があったのだが、その後平成元年(1988)にはそれらの分散していた校舎が一つにまとめられ仙台駅から徒歩4分という距離の青葉区花京院の地に校舎が建てられた。
では、ここでなぜ中心地に学校が建てられたかという事についてだが、それは次に挙げる東北電子専門学校の学校紹介の中からヒントを得る事ができると思われる。「『仙台駅に隣接する東北最大規模の施設・設備環境』JR仙台駅から徒歩4分の距離にそびえ立つ地上15階建て延べ7千坪のインテリジェントビル。校舎内には最新の設備が所狭しと並び、パワーマックG4やペンティアム4マシン、SG1320など実習用PC1200台が常時稼動。ハイレベルなデジタルミュージック実習室、プロ顔負けの機材を備えたデジタル音響映像スタジオやノンリニア編集室・バーチャルスタジオなど、その道のエキスパートを目指すのには理想的な環境が整っている。、そして『校内すべての場所が自由快適なインターネット環境』eラーニングなど先進の情報教育に対応すべく、校内ネットワークインフラを一新し、最新のブロードバンド環境を構築。基幹LANシステムには超高速大容量のギガビット光ファイバーを導入。さらに校内にはくまなく無線LANアクセスポイントを設置し、学生は校内どこにいても自由快適にインターネットを楽しめる環境が実現した。」[河北新報 2004、2月2日](東北電子専門学校が独自に発行している資料の中にTOHOKU COMPUTER COLLEGE PUBLICITYというものがあるがこの資料の中には東北電子が紹介された新聞記事がスクラップされており先に挙げた河北新報の記事もその中の1つである。)
以上の事から東北電子専門学校では特にパソコンにおいての最先端教育がなされており施設・設備においてもハイレベルな教育システムを念頭におき最新の機器が所狭しと並べられている。この事からも東北電子専門学校においては最先端時代の先端をゆく教育が行われている事が分かる。
つまり東北電子専門学校においては学科的にも情報エレクトロニクス分野における情報システム科やシステムエンジニア科、アドバンス分野におけるCG専攻科、マルチメディア分野におけるCGクリエーター科など常に最新の情報が求められる分野が数多く、そのためにも最先端の環境設備や施設、そして情報が必須となる。そのためにも学校は仙台市の中心部という最も最先端の情報がキャッチできる場所に建てられたのではないか。
2つめに取り上げるのは55年という歴史を持ち“キャリアカレッジ”とも呼ばれている
菅原学園である。菅原学園はデジタルアーツ仙台(青葉区本町2丁目)、仙台情報ビジネス専門学校(青葉区本町2丁目)、仙台総合ペット専門学校(青葉区本町2丁目)、仙台福祉専門学校(青葉区本町1丁目)の4つの学校を抱える総合学園である。昭和24年(1949)仙台簿記学校として創立し昭和50年(1975)に新たに仙台電子専門学校が開校された。その後昭和59年(1984)に仙台ビジネス専門学校が開校し平成7年(1995)にはインターネットによる独自の情報システム・菅原学園ネットを開設した。年表を見た限り校舎の大規模な移転など目立った動きは見られなかったが、それぞれの学校の住所に注目してみると全く同じ敷地ではないが校舎は全て青葉区本町に集中している。では、なぜ学校は仙台市の中心部に集中しているのか、この事について考えていきたい。
まず始めに東北電子専門学校の時と同じように設置されている学科について注目してみた。デジタルアーツ仙台においてはコンピューターミュージシャンなどのエンターテイメント系、プロモーターやゲームプログラマー、CG技術者養成などであり、仙台情報ビジネス専門学校においてはエンジニア、ファッションアドバイザー、マーチャンダイザー(商品の販売に関し、商品発注から販売完結まで一切の計画を担当する責任者)、などの養成、仙台総合ペット専門学校においてはトリマー(犬や猫などペット専門の美容師)、ペットアドバイザー(ペットショップなどで働き、ペットの健康管理や飼育方法、餌の与え方などのアドバイスをする)、フラワーデザイナーなどの養成、そして仙台福祉専門学校では福祉アドバイザー(心の面から障害者や高齢者をケアし、家族をバックアップするプロ)、医療情報処理技術者(カルテの管理や薬品の管理、食事療法をアドバイスするためのカロリー計算など医療情報のほとんどを電子情報としてコンピューターを動かし管理する)の養成などである。先に挙げたものは多数ある学科のほんの一部であるが、これらの学科はいずれも常に最新の情報を必要とし最新の設備や施設を必要とする学科であると考えられる。菅原学園の学校紹介パンフレットにおいて学校の施設や設備について次のように書かれている。「この環境が、プロになる意識を高めてくれる。東北最大・最新の設備環境」、また「キャリアカレッジ菅原学園では、皆さんの夢の実現を応援するために、全ての学校で各分野の実際の現場と同じ環境を再現しています。学生たちは、この環境の中で実習を中心とした授業を行い、自然とプロとして必要な技術を身につけていくことができるのです。<中略>即戦力を育てるキャリアカレッジ菅原学園は、そんな当たり前のことを大切にして、実践力を身につけられる最適な教育環境を創り上げました。」[菅原学園 2005;85]
この文章の中で「最新の設備環境」「最適な教育環境」など設備や教育環境について学校側が大々的にアピールしている事が良く分かる。このアピールによってより多くの学生を集めるという事も考えられるが、専門学校においてはこのような最新の教育環境を常に維持していくためにも最先端の情報を手に入れる事が必要となってくる。これらの事からも専門学校が中心地にある理由はやはり「最先端の情報を手に入れる=中心地に学校がある」という事ではないだろうか。
次に3つの専門学校を持つ総合学園である北杜学園を取り上げたい。北杜学園は仙台医療福祉専門学校(青葉区中央にある中央校舎、中央第3校舎、青葉区北目町にある北目町校舎、青葉区五橋にある五橋校舎の4つの校舎からなる)、仙台大原簿記公務員専門学校(青葉区中央)、仙台医療技術専門学校(太白区長町)の3つの学校からなり、校舎は全部で6つある。北杜学園は昭和55年(1980)、東北初のビジネス系の学校「仙台スクールオブビジネス」として青葉区五橋に開校され、平成3年(1991)には青葉区北目町に仙台大原簿記専門学校校舎が落成された。平成8年(1998)青葉区中央に中央校舎が落成され、平成13年(2001)には青葉区中央に中央第2校舎が落成、さらに平成16年(2004)には青葉区中央に中央第3校舎が落成された。
年表を見てみると、現在は青葉区中央にある大原簿記公務員専門学校が平成3年(1991)には青葉区北目町にあったりと、先に挙げた専門学校と同じく若干の移転はあったものの大規模な移転などは見られなかった。学校のパンフレットに目を通してみると、先に挙げたいくつかの専門学校と同じく「最新の」「最新鋭の」という言葉が多く出てくるように思われた。それは次のような部分である。(それぞれの校舎の説明文の中から端的に文章を抜き出した)「仙台医療福祉専門学校、中央校舎→モダンなデザインの校舎内には、最新鋭の演習設備や教育機材から学生食堂、コミュニケーションスペースまで完備しています。中央第3校舎→平成16年誕生のニューキャンパス。キャンパスライフのクオリティーをより高めてくれる最も新しい校舎です。北目町校舎→訓練や検査、指導に必要な設備機器を完備して、最新の学習環境を実現しています。仙台大原簿記公務員専門学校、中央第2校舎→最新設備を満載した総ガラス張りのフレッシュな空間です。仙台医療技術専門学校、長町校舎→専門知識、技術を習得するための各種実習機器が完備されています。」[北杜学園
2005;5〜6]
先に挙げた校舎の中で、仙台医療技術専門学校の長町校舎は唯一郊外にある校舎である
が、その他の中心地にある仙台医療福祉専門学校、仙台大原簿記公務員専門学校の5つの校舎の説明文には「最新の」「最新鋭の」「充実の」設備・施設という言葉が並んでいた。しかし、唯一郊外にある長町校舎に限っては中心地の校舎の説明文の中にあった「最新の」
「最新鋭の」などという言葉はなかった。ここから、郊外にある校舎に比べ中心地にある校舎はより最新の、最先端の充実した施設・設備を完備しているのだという学校側の大々的なアピールというものが感じられた。
以上、これまでは総合学園と呼ばれる規模の大きな学校ばかりに目を向けてきたが、ここではこれまでの総合学園とは全く違った分野の服飾・デザイン系の専門学校であるドレメファッション芸術専門学校について見ていきたい。ドレメファッション芸術専門学校は名実ともに東北最高の名門と評価され、現在においてもファッション界の第一線で活躍する人材を送り続けている。(この学校を選んだ理由としては沿革・立地状況や移転などについて資料に詳しく明記されていたからである。)
始めに沿革についてであるが、昭和15年(1940)菅野貞子氏(現校長)により青葉区一番町に宮城ドレスメーカー女学院創立、昭和18年(1943)戦時下のため宮城洋裁女学院と校名を改称し、芭蕉の辻に移転する。昭和20年(1945)空襲により校舎を焼失し翌年、若林区連坊小路に校舎が再建され、昭和24年(1949)仙台市常磐丁に新校舎が完成した。昭和32年(1957)には青葉区春日町に校舎が新築移転され、昭和40年(1965)に春日町校舎を増改築した。その後、昭和44年(1969)に青葉区支倉町に宮城ドレメビルが完成し昭和56年(1981)青葉区支倉町に姉妹校「創表現専門学校EST」が設立された。
校舎の移転について前半は戦時下の影響によるものが多かったが、その後は校舎を増改築したり、新しく校舎を建築したりと、移転というよりはむしろ拡充に力を入れているように思われた。では、幾度かの移転や増改築においてもなぜ校舎が中心地から郊外へと移る事がなく中心地に留まり続けたのか、この事についてはパンフレットからそのヒントを得る事ができた。
ドレメファッション芸術専門学校が中心地に留まり続けた1つめの理由としては、この学校は仙台初の作品展示会を開催、東北初の杉野芳子ショーを開催、東北初の世界民族衣装コレクションを開催など、全てにおいてどこよりも先がけてショーなどを行っていた事にある。つまり“どこよりも先がけとなる”という事は常に最新の情報をキャッチしなければならないという事であり最新の情報をキャッチする=中心地に学校があるという事だと考えたからである。その最新の情報をキャッチするという手段は現在、「ファッションニュース・エクスプレス」として息づいており、これは世界のファッション情報をいち早く送る先進的な放送システムの事である。ドレメではこのネットワークをいち早く導入した。
2つめも「最新の情報」と重複する部分があるが、パンフレットには次のような事が書かれていた。「学校の立地されているロケーションが抜群で中心街全体が生きたキャンパスであり、ファッションの動向は毎日自分の目で確かめられる。12月には有名な定禅寺通りの“光のページェント”が通学路になり、仙台七夕のパレード参加などはカリキュラムの一貫として欠かせないものとなっている。」[支倉学園 2005;10]
これまでの事についてまとめてみると、専門学校が中心地に集中している理由としては1.中心地にある学校の「最新の」「最先端の」施設・設備をパンフレットなどで大々的にアピールする事でより多くの学生を集めるのに成功しているのではないか。2.専門学校においては学ぶ分野・学科などがエレクトロニクスやCG技術などに代表されるような情報に関するものや、その他の学科においても常に最新の情報が必要とされる分野が多く最先端の情報が求められる。中心地に学校がある事で常に最新の情報をキャッチし手に入れる事ができる。3.即戦力を育成するための専門学校においては実習や実技など実際の現場を想定して学ぶ事が多いが、専門学校が中心地にある事で実際にその現場を見る事ができたり、経験できたりする機会も多い。つまり中心地の街全体が生きたキャンパスとなっていると考えられる。
最後に、今まで述べてきた『学都仙台』についての総まとめとして今後の『学都仙台』について述べていきたい。
第3章 『学都仙台』の今後
1節 仙台市における学生・学校同士の交流状況<学生である私自身の立場から>
第1章、2章においては『学都仙台』についてその由縁や歴史的経過、そしてこの論文の最大のテーマである“大学・短期大学の郊外移転と専門学校の中心地への集中はなぜ起こるか”について順を追って見てきたが、その中で私自身が学生の立場から現状の『学都仙台』に対し考えた事があった。その事については第2章1節において小林氏も触れていたように大学・短期大学の立地的状況について「それぞれの大学が地理的に離れてしまっている事が大学間交流にはマイナスの要因となっているとも考えられる」[小林 2002、43]という事である。つまり現在の仙台市においては、大学・短期大学が中心地から郊外へ移転した事によりそれぞれの大学・短期大学の間の距離が離れすぎて大学間交流というものがあまりなく、それが現在の『学都仙台』においてマイナスの要因となっているという事である。ここで現在の仙台市における学生・学校同士の交流状況について具体的に見ていきたいと思う。
まず、始めに大学におけるクラブ・サークル活動の交流状況についてだが、ここでは私が現在通っている宮城学院女子大学の例について取り上げてみたい。宮城学院女子大学においてはクラブ・サークルはそれぞれ文化系と体育系とに大きく分けられ、その中では文化系が20、そして体育系が20の合計40にも昇るクラブ・サークルがある。その40にも昇るクラブ・サークルの中で仙台市内の他の大学と実際に交流があるのは文化系においての放送部、ウィンドオーケストラ部、書道部、E.S.S(英会話や簡単なディスカッションを中心に行う)の4つ、体育系においてのラクロス部、フォークダンス部、競技ダンス部、バスケットボール部、剣道部、の5つの合計9つである。(宮城学院女子大学パンフレットより)
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◎他大学と交流のある文化系サークル |
◎他大学と交流のある体育系サークル |
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放送部→春秋2回開催される在仙4大学(東北大・東北工業大・東北学院大・宮城学院) の放送部によるラジオドラマコンクール、 ウィンドオーケストラ部→毎年12月に開催する東北工業大との合同演奏会の他、他大学との交流も盛ん、書道部→作品は大学祭及び東北学院大との連盟展で展示発表され、他大学との交流もある、E.S.S→大会前には東北大と合同練習を行う、 計4サークル |
ラクロス部→他大学と協力して大会(試合) を企画・運営することも多い、フォークダンス部→東北大学フォークダンス同好会との合同サークルで他大学・他団体との交流が盛ん、競技ダンス部→東北大と合同で練習している、バスケットボール部→大会出場を通して他大学の学生と交流する機会も得られる、剣道部→他大学との交流もある、 計5サークル |
上記の内容を割合で表わしてしてみると文化系20、体育系20の40のクラブ・サークルの内、実際に他の大学と共に活動や積極的な交流を行っているのは9つで22.5%という低い割合である事が分かった。
また、私が宮城学院女子大学に編入学をする以前に通っていた仙台市近郊にある尚絅女学院短期大学においてもクラブ・サークル活動を通じて積極的に他の大学などと交流を行うという機会は全くと言っていいほどなかったと思われる。短大当時、実際に私の友人達も“せっかく仙台にはたくさんの学校があるのだからもっと他大学の学生達と交流する機会やイベントなどがあればいいのに”と嘆いていたのを今でも鮮明に覚えている。また、私の高校時代の友人達の多くが仙台市内の大学などに進学したのだが、その友人達の多くが“学校同士がかなり遠いから互いに仲々顔を合せる機会がない。もっと学校が近い距離にあったらお互いの学校の事をもっと良く知れるし、交流やイベントもできてもっと充実した学生生活が送れるのに”と嘆いていた。
また、仙台市の専門学校に通う友人の話によると、“専門学校では学内や同じ学園の専門学校内においてはクラブ・サークル活動を始め多くのイベントや交流が行われているが他の専門学校と交流をする機会は滅多にない”という事であった。確かに専門学校においてはそれぞれの全く異なる学校法人によって成り立っているため、相互の学校の交流などを行う事は難しいと考えられる。しかし、専門学校は大学・短期大学と違い立地的に近いという利点があるため、それを生かし互いの学校のプラスの要因になるような事が何かできるのではないかと思われた。先に私の友人が述べた意見は個人の考えによるものであり、仙台市内の大学・短期大学又、専門学校に通う全ての学生が先に述べたような事を思っているのではないのかもしれない。しかし、大学・短期大学においては学校同士の距離が実際に近くなる事はないが、互いにその距離を縮める協力をし合う事で、それまで遠かった互いの学校の距離が縮まるだけではなく、学生同士の活発な交流を通しての学生同士の互いの心の距離まで近くなるのではないか、そしてその事によって学生間の意見交換などが活発に行われるようになり結果的に今後の『学都仙台』全体の活性化にも繋がるのではないか、と考えたからである。しかし、その反面サークルや部活などを単に学生の交流の場として済ませるのではなく、それが仙台という街の文化創造に大いに貢献できるはずなのに、その貴重な文化財源が距離によって遮断されている事が仙台市が「シティーセールス」で謳っている、世界をリードできる都市創造の道をも阻んでいる事が大きな矛盾となっている。これらの今後の『学都仙台』については次の第2節の「学生同士の活発な交流により創られていく新生『学都仙台』でもう少し詳しく述べていく事とし、ここでは次に仙台市における学校同士の交流状況について述べていきたい。
仙台市における学校同士の交流状況において代表されるものとしては“単位互換制度”が挙げられる。単位互換制度について、2004年度版の宮城学院女子大学の学生便覧において次のように書かれている。「単位互換とは、他の協定締結大学で提供される授業科目を履修し、修得した単位が所属する大学の単位として認定されるという制度です。現在、仙台圏の大学・短期大学・高等専門学校合わせて19校が『学都仙台単位互換ネットワークに関する協定』を締結しています。協定締結大学は尚絅学院大学、仙台大学、仙台白百合女子大学、東北大学、東北学院大学、東北芸術工科大学、東北工業大学、東北生活文化大学、
東北福祉大学、東北文化学園大学、宮城大学、宮城学院女子大学、宮城教育大学、短期大学では尚絅学院大学女子短期大学部、聖和学園短期大学東北生活文化大学短期大学部、宮城農業短期大学、高等専門学校では仙台電波工業高等専門学校、宮城工業高等専門学校である。」[宮城学院 2003;27]また、この単位互換制度の単位認定の例外として卒業判定時期の関係から、4年生は通年科目及び後期科目を履修することはできるが、卒業要件単位に含めることはできないとされている。私も実際に今年度、単位互換制度を利用しようと思ったのだが上記にあるように4年生の場合は卒業単位として認定されない事、また授業を受けようとする大学がかなり遠い距離にあり、通学において不便であるという事から単位互換制度を利用する事を断念した。しかし仮に、今回単位が認定されないとしても、授業を受講したい大学が立地的に近いという事であったなら、気分的にも通学にあまり時間をとられなくても良いという理由から単位互換制度を利用していたかもしれない。これから述べる事は一個人である私の見解であるが、各々の学校同士が遠い距離にある事は単位互換制度の学生達への普及を少なからず遮っているのではないか。確かに仙台市においては積極的に学校同士の交流が行われるように単位互換制度というものが導入されているのだがこれが果たしてどこまで定着し、多くの学生達に利用されているか。今後、仙台市において大学・短期大学の距離が遠いというマイナスの要因をどのようにプラス要因へと変えていけば良いのか、これらをふまえながら次の第2節では今後の『学都仙台』について述べていきたいと思う。
2節 学生同士の活発な交流により創られていく新生『学都仙台』
第3章1節の「仙台市における学生・学校同士の交流状況」において、大学や短期大学が中心地から郊外へ移転し大学間の距離が遠くなった事により交流が行われなくなったというマイナスの要因について学生の生の声を交えながら述べたが、ではこのようなマイナスの要因を抱え込んだままの現状を今後も継続していくべきか、それとも何らかの方策を考えるべきなのか。この課題について私は自分なりに導き出した考えを今から述べていきたい。
大学・短期大学の郊外移転は主に、第二次ベビーブーム世代からの入学者数の飛躍的な増加により中心地にある校舎では定員を抱えきれなくなった事や各々の学校の更なる発展のため、によるものという事がこの論文を書き進めていく段階で分かった事であるが、このような時期に各々の大学・短期大学が既に郊外への移転を済ませてしまっているため、大学・短期大学の設置されている場所を今更近い距離に持って行くという事はもはや不可能である。しかし、実際の大学間の距離を縮める事はできなくとも、少しでもその距離を縮めるようにお互いの大学・短期大学が協力していく事により実現されていくのではないだろうか。その協力というのは例えば、学生同士の交流機会を増やすために仙台市内の大学・短期大学(また広い意味で専門学校などとも)合同で行うイベントの開催、普段は他大
学・他分野で学ぶ学生同士が互いの積極的な意見交換を行うためにシンポジウムを開催する、などである。しかしここで、そのような事を行うための施設はどうなるのかという点が挙げられると思うが、これについては、各々の学校が協力し合い、全ての学校の中間距離である場所に施設などを設けてはどうだろうか。各々の学校において互いの共通拠点になる場所を設ける事でさらに学生や学校同士の交流が増えるのではないか。このように交流が増える事で同じ『学都仙台』で学ぶ学生達の友好関係も深まり、互いの大学・短期大学の情報交換などを行う事もできる。ここでこの“学生同士の情報交換”について私は、もう既に現在実現されている1つの例を見つける事ができた。それは2002年4月に仙台市を中心に、宮城県内の専門学校生、大学・短期大学の学生によって組織された学生団体“学割net”による活動である。活動紹介によると“学割net”では「『若者の若者による若者ためのコミュニティ』の形成を目指し、学生の実践経験の場、就業経験の場を提供しながら様々な事業を展開し、活動内容としては、フリーペーパー参加型ガクセイマガジン『Cubet仙台』の発行を始めとしたメディアプロジェクト、アートイベント『DORIMESE』に企画・運営を始めとしたイベントプロジェクト、そしてモバイルシステム『ガクモバ』を始めとするマーケティングプロジェクトなどである。[新谷 2004;15]
発行されているフリーペーパーの中では様々な大学・短期大学・専門学生などの多くの学生達がインタビューを受け、「仙台に対してこれでいいのか、と思う事があるか」や「仙台をもっとよくするには」といった質問に対し率直に意見交換を行ったり、学割netの活動に参加したいという学生を大々的に募ったりと、仙台市内の全く違う学校の学生達が集まり活発に活動を行っている。これらは1つの例にすぎないが、このように全く違う学校の学生達が活発な意見交換を行ったり、1つになって何かを創り上げるというのは多くの学生達を抱える『学都仙台』において必ずやプラスの要因になるに違いない。今後もこのような学生団体が増える事でより良い『学都仙台』の発展に繋がるのではないか、と考える。
我々学生は、普段自分が学んでいる分野の事についての情報は持っているのだが、自分が普段学んでいない全く別の分野の情報を入手するのは難しい。しかし先のように他大学・他学科の学生との交流・意見交換などのより新しい分野の情報を入手する事ができ、その事によりさらに学生達は新しい刺激を受ける事になる。これは何も大学・短期大学だけに限った事ではなく、特に専門学校の間においては立地的には中心地に集中しているため比較的実現しやすい環境にある。(しかし、専門学校においては各々が独立した学校法人であるため交流が実現されるかどうかは分からない)これらの相互交流・意見交換などによって各々の大学・短期大学が良い意味で活性化され、この事が『学都仙台』全体の更なる活性化にも繋がり、今後、現在よりも更に多くの学生の熱気で溢れる新生『学都仙台』が誕生すると思われる。
おわりに
本論文では、なぜ仙台という都市にはこのように多くの学校が集まっているのか、また仙台白百合女子大学、宮城学院女子大学に代表されるように昔は賑やかな仙台市の中心地にあったのだが現在は郊外へと移転していった学校が増えたのか、またそれと関連しなぜ専門学校は仙台市内の中心地に集中しているのか、について取り上げた。
先の、なぜ仙台にはこのように多くの学校が集まっているのか、については『学都仙台』と呼ばれる由縁とその経過を探る事で見えてきた。難波氏によると仙台が学都と呼ばれる理由は「特に、中等・高等教育が充実し、東北の中心的役割を果たした事にある。」[難波 1997;10]からであるとされ、この『学都仙台』形成において大きな役割を果たしたのは全国で三番目に設立された帝国大学である東北帝国大学であった事は言うまでもないが、東北帝国大学が創立される以前の、明治初年に開設された裁縫の朴沢学園や長谷塾、また1880〜1890年代に創立された仙台神学校(現:東北学院大学)や宮城女学校(現:宮城学院女子大学) などのミッション系私立学校の影響も大きかったと思われた。特に裁縫の朴沢学園や長谷塾は東北では裁縫教育の双璧と呼ばれ、「小物習わば朴沢に、長物習わば長谷に就け」と称され、北は北海道、南は九州まで全国から多くの学生を集めた。私自身、この言葉を聞いた時にとっさに、明治初年この裁縫の双璧と呼ばれた私塾があったからこそ仙台が『学びの都』とし全国の多くの人々に注目されるようになり、結果多くの学生を獲得する事に成功したのだと考えた。明治40年に東北帝国大学が創立し、その後は立て続けに私立大学や専門学校などが創立されるようになり、全国でも有数の高等教育機関の集積都市『学都仙台』と呼ばれるようになっていったのである。
また、2つ目の大学の郊外への移転と専門学校の中心地への集中はなぜ起こるか、については実際にそれぞれの大学・短期大学の中心地から郊外への移転理由を調査したところ1.中心地に比べ郊外の方が緑が多く教育環境に適している事、2.大学の更なる発展のため、3.第二次ベビーブームの影響による飛躍的な入学者の増加により以前までの中心地の狭い校地では限界とされた。そして、それによる大学の施設・設備のさらなる拡充が必要になったため、であるとされ、次に専門学校が中心地に集中している理由としては1.中心地にある学校の「最新の」「最先端の」施設・設備をパンフレットなどで大々的にアピールする事でより多くの学生を集めるのに成功しているのではないか、2.専門学校においては学ぶ分野・学科などがエレクトロニクスやCG技術などに代表されるような情報に関するものやその他の学科においても常に最新の情報が必要とされる分野が多く最先端の情報をキャッチする事が求められるため、3.即戦力を育成するための専門学校においては実習や実技など実際の現場を想定して学ぶ事が多いが、専門学校が中心地にある事で実際にその現場を見る事ができたり経験できたりする機会が多いため、つまり中心地の街全体が生きたキャンパスとなっていると考えられるのである。
しかし、ここで1つの矛盾点が生まれる。それは先に挙げた大学・短期大学においての中心地から郊外への移転理由についての1つめの中心地に比べ郊外の方が緑が多く教育環境に適している事、という部分であり、この理由からすると中心地にある専門学校においては、中心部にある事で教育環境に適していないのか、という事になる。しかし、これらについて考えてみると大学は郊外にあるから環境が良い、専門学校は中心地にあるから環境が悪い、という事ではなくこれらについて大学と専門学校の間の“施設の立地”についての大きな違いがあるのではないかと考えられる。その違いとは大学は図書館、食堂、体育館、グラウンド、サークル棟などが必要であり、そのため必然的に広い施設や土地が必要となるが、それに対し専門学校は食堂などは必要であるが広い図書館やグラウンド、体育館などは必要とされないため土地は狭くとも1つのビルの中に全ての施設をつくる事が可能となるのではないか。実際、専門学校の校舎は1つのビルの中に入っている場合が多い。これらの施設の立地の大きな違いにより、大学は広い土地がある郊外への移転を余儀なくされ、専門学校は比較的狭い土地でも1つのビルに学校を収める事ができる中心地に集中しているのではないか。これらの事も大学の郊外移転と専門学校の中心地集中の要因となっていると思われる。
そして、先に述べた大学の郊外への移転がもたらしたマイナス要因=結果として大学間の距離が遠くなってしまった事により、大学間の交流が行われなくなったという点が挙げられる。仙台は『学都』と呼ばれ、こんなにも多くの大学・短期大学・専門学校・各種学校があるにも関わらず互いに交流や情報交換が行われないのはあまりにももったいない事であると思われた。そこでこのマイナス要因をプラスに変えるため私なりの提案を示した。その提案とは、学校が立地されている場所を今更変えて距離を縮める事は不可能であるがその距離を縮めるために互いの学校が協力し合い学生同士の交流機会を増やすイベントを企画したり、学生の意見交換のためのシンポジウムを開催したりしてみてはどうかという事である。現在、実際に行われている他大学(短期大学・専門学校も含む)の学生同士の交流や意見交換の場の一例として他大学・他分野の学生達が集まり雑誌を作成したりイベントを企画したりする“学割net”という団体が挙げられる。この団体では活動を通し学生達の現状や生の声をストレートに伝え「若者の若者による若者のためのコミュニティ」形成を目指し様々な事業を展開している。今後このような学生団体が増加し、他大学や他分野の学生達との交流・意見交換の場が増える事で現在よりもさらに活気や熱気に溢れる新生『学都仙台』が築きあげられると思われる。
<参考文献>
仙台市企画局情報政策部 2002 『市勢要覧 仙台 2002』 仙台市
情報企画課
仙台市史編さん委員会 1997 『仙台市史第8回配本 特別編4市民生活』第5章 学びの軌跡3、難波信雄』 仙台市
伊勢民夫・田村昭・
吉岡一男 1987 『番丁詳伝』 株式会社1・4・1
仙台市教育委員会 1964 『仙台の教育九十年』執筆担当、斎藤立一
(この著書の中で斎藤氏は河北新報、明治30年5月15日付けの記事を取り上げている) 仙台市教育委員会
仙台市 2004 『仙台市実施計画』 仙台市
仙台都市総合研究機構 2002 『地方中枢都市仙台の現状と都市戦略〜人が集う魅力
あるまち仙台をめざして』⇒(主任研究員・主担当=
小林敬) 仙台都市総合研究機構
仙台都市総合研究機構 1999 『地域活性化に果たす大学等学術研究機関の役割に関する基礎調査』(主任研究員・主担当=小林敬) 仙台都市総合研究機構
大滝精一(代表委員長) 2002 『仙台市経済活性化、雇用政策検討委員会シンポジウム』
より抜粋
松田紹典(学長) 1996 『聖和学園短期大学 自己点検・評価報告書』 聖和学園
<資料・地図>
宮城県専修学校各種学校連合会 2004 「専修学校・各種学校所在地MAP」
菅原学園・学校紹介パンフレット 2005 「CAREER COLLEGE GIUDE 2005」
北杜学園総合案内パンフレット 2005 「HOKUTO GAKUEN 2005」
支倉学園パンフレット 2005 「DOREME COLLEGE OF FASHION AND
ARTS PROSPECTUS」
宮城学院女子大学パンフレット 2003 「大学要覧 2003」
宮城学院女子大学 2004 「学生便覧 2004年度」
学割net(編集長 新谷峰弘) 2004 「参加型ガクセイマガジン キューベット・センダイ」
<新聞>
河北新報 2004年2月2日付け(東北電子専門学校発行の資料TOHOKU COMPUTER COLLEGE PUBLICITYより)
<インターネット>
Yahoo!学習情報-高校生のための進学情報
http://shingaku.edu.yahoo.co.jp/bin/slist?type=ken&ken=004&b=40b
★自作年表作成においての参考文献・資料
<参考文献>
仙台市 1989 『仙台市百年のあゆみ』第3章教育・文化編・編集 大竹誠一 仙台市
仙台白百合学園 1993 『広がる愛未来へ〜仙台白百合学園100年のあゆみ』 仙台白百合学園
学校法人三島学園 1963 『三島学園創立六十年史』発行人、茂木徳郎 三島学園
聖和学園短期大学 1996 『聖和学園短期大学 自己点検・評価報告書』 聖和学園
<資料>
学校法人支倉学園 2004 「支倉学園ドレメファッション芸術専門学校案内パンフレット」
<インターネット>
東北福祉大学ホームページ http://www.tfu.ac.jp/new/enkaku.htmlb
東北学院大ホームページ http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/about/history/history.shtmlb
宮城学院女子大学ホームページ http://www.mgu.ac.jp/home/sub4.htmlb
東北薬科大学ホームページ http://www.tohoku-pharm.ac.jp/history/enkaku.htmlb
東北工業大学ホームページ http://www.tohtech.ac.jp/outline/body-history.htmlb
宮城教育大学ホームページ http://prc.miyakyo-u.ac.jp/outline/introduction.phpb
仙台大学ホームページ http://www.sendaidaigaku.jp/rinen/rinen.htmlb
東北文化学園大学ホームページ http://www.tbgu.ac.jp/univ/gakuenenkaku.htmb
東北電子専門学校ホームページ http://www.jc-21.ac.jp/
北杜学園ホームページ http://www.hokuto.ac.jp/enkaku/F1.htmb